2005年07月13日

「銀幕ノ幻想」庚申講説

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カチンコ東京幻想倶楽部 第10回映像作品
【銀幕ノ幻想〜Chimere du rideau d'argent〜】
 平成17年7月8日・9日・10日18:50〜/下北沢・短編映画館「トリウッド」
 出演:谷畑聡、ギネマ、南原健朗、齋木亨子(朗読)
 撮影監督:荒木憲司/技術:村岡勇治
 美術:カイエ綺花、麿/音楽:竹夏、麿
 協力:木村哲也、宮崎二健、JazzBarサムライ、(株)ODIN
 脚本・監督:麿/制作:東京幻想倶楽部/上映時間:12分
            http://tokyo-lunatix.com/menu.html
※この上映は、
えむぱい屋「モーレツチャンピオンまつり〜怪獣+幻想〜」に於いて
荒木憲司監督のSF最新作「モーレツ怪獣大決戦」(出演:唐沢なをき、
久保亜沙香他)と二本立てで上映された。始めが短編の「銀幕ノ幻想」。
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麿監督の最新短編映画「銀幕ノ幻想」を観た。
たった12分間なのだが、かなり長く感じた。
目先を喜ばせるばかりではなく、掘り下げて来るものに心を奪われた。
それぞれの場面が耽美的で変化に富んでいた。
非叙述的な構造なので想像力をかき立てられた。
折り重なる余韻の連鎖を打ち消したり圧迫しない展開は、
ストレスなく幻の闇に惹き込まれる。
風波、色香、風俗、伝承、風刺、夢現(ゆめうつつ)など、
全て拮抗していて緩急に緊迫感があった。
男の切腹前の静寂さは、平面的な画面構成だけを取っても、
虚無と混沌に塗れた覚悟の魂が漲り、
観る者をカタルシスの坩堝に立ち込める芳香に導く。
三人の演者も、前半の男と後半の女の詩の朗読も雰囲気があり、功を奏している。
「まったくおまえはうすのろだ」と低く繰り返される罵声は、
フィードバックされ木霊する。
砂浜に外し置かれた二個の眼球、大映しの女の寄り目、
切腹部屋の背後の障子に描かれた痛恨の眼、
始めと終わりに現れる盲目の単独遍路。
カイゼル髭の男の鼻をかむ時の見開いた眼と切腹前の座った眼。
それらの眼光に挑発されつつ、我が眼は気張り続けた。

終幕の素朴なギターのアルペジオと波の音の哀感が、
未だに寄せては返し、返しては寄せてくる。

  幻想が幻想を呼ぶ波の音血汐漂う床に君在れ  二健

…そう感慨深く観終わって、一首で結んだ。
しかし、翌日の東京幻想倶楽部の掲示板で展開されていた真摯な書き込みに接して、
更に新たな感想が湧いてきた。
体の不自由な遍路のラストシーンで、例えば幻想の森の迷宮の扉を開く鍵を探して
いるかのような仕草で、和服の女ににじり寄り、胸元をまさぐっていた。
口を開けて首筋の臭いを嗅いでいた。
男に自刃で先立たれて自縛し損なった女の懐などには隠されているはずもなかった。
遍路は太鼓を叩いたら天井がびりついて鍵が落ちてくるとでも思ったのであろうか。

           *

そんな訳で、一つの仮説だが、「銀幕ノ幻想」は、
庚申講の突拍子もない映画表現だったのではないかと妄想し、
その脈絡に身を委ね、気侭な読みの旅をした。
「虫を出しまたか」という女の開口一番の科白は、
何よりもそれを象徴し、物語っている。
虫とは道教で言うところの三尸(さんし)の虫に違いない。
体内に潜伏し、その人の悪業を監視していて、謂れのある60日目に、
寝ている間に抜け出し、天帝に密告する。
天の神に悪のレッテルを貼られると、罪状に応じて寿命を縮められてしまう。
だから虫を出せと女は急かせたのだ。
三日後が予定日なのは、庚申信仰の使わしめが猿、
しかも見ざる言わざる聞かざるの三猿だ。
根拠はないが、今日は見ざるの日だから三日後なのだ。もうお分かりと思うが、
遍路は、あえて障害者の必然がある。よって独りで三猿を演じていたと解釈する。
庚申塔下部の三猿の上には、邪鬼を踏ん付けた青面金剛(しょうめんこんごう)が在す。
一面三眼六臂の神像だ。それを裏付けるかのように憤怒の眼や邪鬼が、
男の切腹部屋の障子に乗り移った如く描かれていた。
演者の腕の数を合わせれば六臂で勘定が合う。
三眼は、三尸とも通い、各虫の出入り口かも知れない。
そもそも青面金剛の手足には蛇が巻き付いている。
三白眼の女の自縛した縄が、蛇の隠喩だとすれば、
女は庚申講の本尊の青面金剛そのものだ。
威厳を形無しにして鼻をかむカイゼル髭の男は、三尸に巣食われた俗人だ。
三日後といわず、三匹といわず、ごっそりと虫を吐き出したのだが、
結局は天帝の命が下って、切腹を余儀なくされた。
生前の業は、障子絵と詩のナレーションと生き証人の女をもって描かれる。
不自由な遍路は下位の三猿として全ての辻褄が合う。
迷宮の扉の鍵探しは、太鼓の轟きを合図に遍路から観客に委ねられた。
女の二臂は合掌し青面金剛の後光を放ち続けている。

そんな迷宮に足掻いてみた庚申講幻想物語だった。

※初出=東京幻想倶楽部BBS「LUNATIK CAFE」、俳句天狗BBS「サムライブルース」
二稿の、ですます調をである調に改め、繋げて改稿した。 2005.7.12 Jiken
10-319
posted by 二健 at 15:33| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

ゆきゆきて、神軍 ―(1987)疾走プロダクション制作

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スタッフ〜監督:原一男/製作:小林佐智子/構成:鍋島惇/企画:今村昌平/
撮影:原一男/選曲:山川繁/編集:鍋島惇/録音:栗林豊彦/助監督:安岡卓治/
スクリプター:高村俊昭・平沢智・徳永靖子・三好雄之進・伊藤進一
製作協力:今村プロダクション/残像舎
                *
カチンコ原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」の主演者・奥崎謙三の逝去の段、
謹んでご冥福をお祈りします。
変電所員ということで徴兵を免れた我が親父と同齢でした。
親父は、群馬の田舎で平々凡々と、母親共々達者に暮らしております。

片や壮絶な生き方を貫いた奥崎謙三のことが、昔から気になっていました。とうとう
今更ながらも、まだ観ていなかったその作品を、ビデオで独りじっくり鑑賞しました。
噂通りの迫力でした。正に無骨なドキュメンタリー映画の傑作だと思いました。
カメラを前にして演技するなどという芸当は奥崎に出来たはずはなく、反体制の英雄
として美化した映画ではないと確信しました。奥崎は、只の凶暴な変人ではなく、
独り善がりながらも啓蒙の念に駆られた自我を全うする、一途な突出した人物でした。
老婆の手を取り墓に参り、哀れな死者に涙する奥崎の目に偽善の欠片も感じられません。
取り締まる警官に罵声を浴びせる言葉の端々にも、奥崎らしさが際立ちました。
正義感と人情の裏返しが過激な行動となって現れるも、自覚と責任感と自省の念を持ち、
わが身を律する人なのでした。既成のイデオロギーに拠らず、群れず、強きに立ち向かう
姿は天晴れでした。生き残った上官等を津々浦々訪ね歩き、戦争を体験した者として、
その醜さを開示せしめる言動の数々は、全て見所でリアリティーのある熱い場面でした。
高齢の上官達も、けっして裕福ではなくも、平穏な日常に突然降って湧いた戦争地獄の
忌まわしい記憶の彼方の再燃の強要にたじろぎ、反発し、その場を難なく収めようと
するのですが、結局は奥崎の入魂の押しに根負けして、真相が明らかになっていくので
した。その真相は人肉食いや部下射殺の史実解明、糾弾に留まらず、当事者は勿論の
こと、今現在の私達映画の観客も全て巻き込み、過去の戦争を通して人心の闇を暴いて
いくのでした。

スローガンの殴り書きで目一杯飾り立てた奥崎の軽のワゴン、または普通乗用車一匹の
戦闘物語でもありました。海辺の大きな景色に天道虫のような街宣車が、一台けなげに
走っているロングの画面には目頭が熱くなりました。
9-256
posted by 二健 at 18:37| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月05日

食の一句 ―365日入門シリーズ1

ペン著編者:櫂 未知子/2005.07.1ふらんす堂刊/ISBN4-89402-744-5
四六判変型並製ソフトカバー240頁/\1,800(税込)
帯文:
「美味しい俳句が満載。切れ味の良い文体が俳句の味を引き立てます。今日出会う名句」

新書『季語の底力』(03.5)に引き続き、またまた親しみやすい俳句本の出現。
現在活躍中の俳人で最も旬な櫂未知子が、最も旬な俳句鑑賞本を出した。
ふらんす堂のホームページで一年に渡って、毎日認めた一日一句鑑賞の成果だ。
古今の食べ物俳句が、365句集められ俎上に上げられ、賞味されている。

「あとがき」の中程と末尾を引用する。

<俳句は、食べ物が作品のメインになり得る稀有な詩型である。「食べる」という
ごく日常的な行為がそのまま詩となる、そんな文芸はめったにあるものではない。
私はグルメではないし、有能な主婦でもないが、俳句における「食」の重要さを
感じつつ今日まで来た。>

もし美食を求めたグルメの視点で選句し鑑賞していたならば、もはや俳句の域ではない。
食は人なり、生きものたらんなりと常日頃思う故に、
<食べることは生きること、それを実感しつつ本書をご一読頂ければ幸いである。>
と、締めくくられていて更に安心した。
しかし、グルメ云々発言の前の<…そのまま詩となる、…>を、<…そのまま詩と俳に
なる、…>と言って欲しいものだ。俳句に於いて俳の概念の不在は淋しい限りだ。
俳句が詩に集約される考え方を見直す時に来ていると思う。
いずれにしても、俳句を食の一字に絞って料理し賞味したところから見えてくるものに、
思いを新たにさせられる。それは俳句と食べ物の両義にわたる発見と感動の相乗なのだ。
8-240
posted by 二健 at 01:18| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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