2008年05月18日

チャップリンの「殺人狂時代」鑑賞

初入店のカツカレーのランチ後、時間の余裕があったので今更ながら、
チャツプリンの「殺人狂時代」を観ました。
職場近くの「新宿K's cinema」で。
平日の昼間とあって、観客は数人でした。
入館して上映20分前には誰もおらず、ど真ん中の特等席に座れました。
昔の昭和館とは違って、椅子は大きくて座り心地がよく清潔でした。

映画が始まってみると、モノクロとレトロな音楽は予想どうりでしたが、
なんと、無声じゃなく、チャップリンが饒舌に喋って、
れっきとした俳優やってるんですね。
(わが予備知識はこの程度です^^;)
スクリーン中の室内で、マダム達が些細なことで口論して
ドタバタしている横で、叔父様が鼾かいて寝ていたり…、
人間の浅はかな深刻さと、その滑稽さのサンドイッチを
どんどん振舞ってくれるチャップリン映画に終始翻弄され、
わが心の襞が震えました。

細かく言えばたくさんありますが、私が映画を見る一つの視点は、
人間以外の生き物の描き方です。次に人間に限れば、大人以外、
さらに常識人で裕福な人、力のある人以外の描き方に注目します。
ここのところは、多くは観ていませんがチャップリンは素晴らしいです。
ちなみに日本の黒沢映画では左卜全にぞっこんです。

元に戻って、ほんのちょっとした場面ですが、
花園を歩いていたチャツプリン(役名失念)は、
路地に毛虫が這っているのを発見しました。さて、どうしたでしょう。
普通の人は、またぐか遠回りして避けて通ると思います。
害虫だし見てくれが気味悪いので、踏み潰す強者もいるでしょう。
チャップリンは「こんな所にいたら踏まれてしまうよ」とか言って、
手づかみで植え込みの中へ戻してやりました。
もうこの数秒のささいなシーンだけで、意図がつかめました。
この強面の映画タイトルのアイロニカルな逆説に頷けました。
猫も少しだけ登場してきます。扱いは同様で心温まるものでした。
虫や動物に愛着をもつチャツプリンは、江戸の小林一茶みたいです。
人間にとっての罪と罰の概念への深い洞察と、
その芸術表現の理念はドストエフスキーとよく似ていると思います。
「殺人狂時代」と「罪と罰」には通底するものがあると思います。
後の映画「タクシードライバー」も然りです。
取り立てて立派ではない偏屈な主人公は、
個人的正義感に駆られて反社会的行動を取っていく物語ですね。

チャツプリンは、この風刺映画を作ることによって、
1940年代のアメリカ社会から排除されていきます。
本家のアメリカで「殺人狂時代」が正当に評価されたのは、
ベトナム戦争の愚かさを知った頃からだそうです。
囚われの身となって、
「一人を殺せば罪人だが、大量殺戮すれば英雄だ」(という意味あい)
とかのたまうチャップリンの言説には、
人間の傲慢な正義観や常識に対する諧謔が漲ってます。

私が言うまでもないことですが、
道化となって観客を笑わせ続けて、まともなメッセージを伝え続けた
チャップリンは偉大です。
終幕は、潔く処刑場に向かう遠景でENDとなります。
役上のチャツプリンは、恩赦も断り死刑を受け入れるのです。
このシーンは、逃げ去らずに反権力を身を持って示した
ソクラテスの服毒自殺を彷彿します。
毛虫や子猫を救うシーンは釈迦似です。
法隆寺の厨子に描かれた、
餓えた虎の母子に身を捧げる釈迦の図を思い出します。
そんなことを連想しつつ、感慨深く「殺人狂時代」を鑑賞しました。

チャップリンこそ真の俳人です。
(俳句を作る人が必ずしも俳人ではありません)

_______________________________

chap-satujinkyo01.JPG chap-satujinkyo04.JPG

※上映館「新宿K's cinema」2008.4.26〜5.30
没後30年特別企画「チャツプリン映画祭」にて      32-3610
posted by 二健 at 00:28| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月31日

映画「バベル」鑑賞

アメリカ映画「バベル」を観た。
元々旧約聖書のバベルの塔伝説には興味があった。

新宿の出来立てのシネコン「新宿バルト9」へ初めて行ってみた。
画材の世界堂の隣の大型ビルだ。新宿3丁目のバベルの塔か。
エレベーターはよくあるシースルー。目のやり場に困らない。
平日の朝一番の回なので、人は疎らだった。
…にもかかわらず全席指定とのことで、
エスカレーターで2階下のチケット売り場に戻され、
10数人の列に並ぶことになった。
がら空きの場内で、わが指定席G-13の隣席には、
ハンバーガーをガサゴソついばんでいる他所の女の子。
彼女は終わってラストクレジット中、暗いうちに退場された。
明かりが点くと、その席の床には紙ナプキンが散乱していた。
風袋からして私の狼藉と間違われそうで後味が悪かった。
いずれにしても、本道ではないそんなことには気をとられずに、
久しぶりの映画鑑賞を享受した。

始めは、なんだかなー?って心持だった。
モロッコ少年のモツコリやら岩陰でのシコシコ場面は、
70年代前後のATG(日本アート・シアター・ギルド)の兎小屋映画のようで
気恥ずかしかった。天下のアメリカさんのメジャー映画で、
そんなせせこましいことのリアリティ出さなくても…、と思った。
確か「サード」でもこれをやる場面があって赤面した。
やはり映画は独りで観るのが無難か。
赤面と感涙、これは独りで居る時に限る。
感涙はご最もなのだが、観客に赤面させるとはけしからん。

しかし、モロッコ少年の、他愛ない観光バス試し撃ち事件が
起こった時から見応えがあった。
物語は、モロッコとメキシコとアメリカの国境辺と、
東京が舞台で、それは因果関係がある現在進行形のドラマ。
夫婦でモロッコを旅している主役のアメリカ人の俳優は、
どこかで見たことがあるなと思ったら、
殺人鬼映画「セブン」の主役刑事のブラッド・ピットだった。
「バベル」と「セブン」は、キリスト教で云う悪徳の見地から
現代の人間社会の暗部を描いたという点では同類の映画だ。
文明社会への問題提起として、あるいは悪趣味もそれなりの
必要悪があって、興行収益を上げるために、
醜悪の限りを尽くして見せる映画作りも、
また逆説的に自由で平和な世の中なればこそと思う。

七つの大罪の当事者たる文明人へ天誅を加える「セブン」の
悪役の一匹狼。正義を守る狼と悪魔の狼の死闘によって、
何の疑いもなかった常識的な善悪の考え方が揺さぶられる。
もって行く場のない悲壮感だけては済まされない。

一方「バベル」は、人の世の遠い国、即ちまるっきり別文化の
三形態をリアルにリンクし、時空の枠を串刺し実相を暴き出す。
地球上の三形態の地点を直線で結べば、大きな三角形が描ける。
このことはイスラムの六芒星を成す三角形と合致する。
アメリカ映画だけに、ドル紙幣のピラミッドの図案とも
関係がありそうだ。(「ダビンチコード」っぽくなった) 
究極の話、母親に自殺された聾唖の女高生・綿谷チエコ
(菊地凛子)の自己アピールたるノーパンデルタに象徴される。
地球に跨ったマクロなトライアングルと、
極東の女子高生に集約させたミクロなバージンデルタ。

観念したモロッコの少年は銃を叩き折った。
別れの時、モロッコの村民は代償を受け取らなかった。
主役夫婦の子供を預かるメキシカンの乳母は強制送還された。
東京の聾唖の少女は生まれたままの姿になった。

アラビックな音楽と相俟って砂塵が舞う。
陽気なメキシカンが踊り、暴走する。
東京はメランコリーな夜を灯し続ける。


(初出のJiken mixi 日記に加筆推敲)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
2006 アメリカ 2007.4.28公開
<一発の銃弾が、孤独な心を繋ぎあわす…>
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演 ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット
   ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子
   アドリアナ・バラッザ
オフィシャルサイト http://babel.gyao.jp/       25-2318
posted by 二健 at 17:39| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月03日

映画「輪廻」のタイトルに思う

rinne (8).JPG rinne (4).JPG rinne (9).JPG

ホラー映画への大きな期待はなかったが、
輪廻という、見過ごせない言葉が
タイトルだったので鑑賞した。

日本の今のミステリー・ホラー映画で、
物語は、35年前群馬県のホテルで起きた
猟奇殺人事件を元にしたという設定の
映画中映画制作の映画だ。
後半、犯人が殺人現場を撮影した八ミリムービーの
銀幕とロケ現場の奇怪な現象とが並立しながら
進行して行くなど、手の込んだ作りになっていて見所はある。
球体間接人形を携えるミステリアスな少女は、
耽美の極みで、最も印象に残った。

輪廻と言えば輪廻転生、生死、涅槃、流転、
転迷開悟、煩悩菩提、因果応報、弱肉強食、
食物連鎖等を連想する。
和歌の回文を輪廻とも。

輪廻は東洋思想の本質的最もたるものと思うが、
ホラー映画で、タイトルとして使われた場合は、
期待外れであっても当然かもしれない。
輪廻の本質を描いたものではなく、お墓行きの肝試しか、
遊園地のお化け屋敷の次元の延長のものだ。
エンターテイメントとしての映画は、
観客の感情を高揚せんがために、分かり易く説明的になり、
オーバーアクションになりがちだ。
ホラーの場合、いかに怖がってもらうかが眼目であろう。
怖いもの見たさの気持ちを高ぶらせることも、
売るための有効手段になりえるから、あの手この手で、
その手垢の付いた方法論でも構わず責め立てるのであろう。

死人がゾンビとなって迫ってくるだの、
死人の生まれ変わりが自分であったりする訳だが、
その恐怖感や驚きの表現に終始することが、
輪廻に集約されるとは思わない。
成仏できない死者が現前する恐ろしさを描くことは
ホラーの常套手段ではあろうが。
ホラー映画的解釈という条件付きでの輪廻なのだろう。

私の想う輪廻(転生)は、生死を繰り返す自然界、
しいては宇宙の法則(真理)だと理解している。
だからこの映画の輪廻観に違和感を覚える。
この映画そのものは決して悪くはないとして、
タイトルを的確なものにしたらなおいっそう
良かったと思うと残念である。
映画中映画のタイトル「記憶」ならば文句はない。
仏教用語は、和風ホラー映画のタイトルとして
使い易いのだろうが、本来の語義から乖離してしまっては、
東洋から発信する邦画としては情けない。
なぜならば、先進国の洋に対する和の深み(まこと)が、
あまり感じられないと思うからである。
世界の映画は娯楽に留まらず、
豊穣な人間文化でありえると誰しも思うからこそ、
なおさらである。

もうひとつの難点は、
最後の余韻に浸るべき時の歌がこの映画にそぐわないと思った。
輪廻という概念を、さらに空々しく感じてしまった。
比べるのはどうかと思うが「キルビル」や 「太陽」の
エンディングは実に素晴らしかっただけに残念だった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
監督:清水崇/製作:一瀬隆重/脚本:清水崇 安達正軌
出演:優香 香里奈 椎名桔平 他
(2005/東宝)96分・PG-12 2006年1月7日より全国公開

参考HP
▽Movei Walker - 輪廻
 http://www.walkerplus.com/movie/special/rinne/index.html
24-2131
posted by 二健 at 16:07| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月15日

「AA」第一部鑑賞

JR水道橋の駅に降り立って、小雨まじりの銀杏黄葉を横目にアテネフランセに至る坂道を
急いだ。ことごとく真新しいビルと化した御茶ノ水の丘(神田駿河台)にあって、
間章が駆け抜けた70年代の佇まいそのままのアテネフランセの学舎が際立って見えた。
エレベーターはないので年季の入った階段で4階の映写室に赴いた。
何事にも几帳面な木村哲也氏は、すでに着席されていた。
滑り込みだったにもかかわらず、前の方でゆっくり座れ、
初回上映ということで青山真治監督の挨拶を聞けたのも幸いだった。
この長編のドキュメンタリー映画は、砂金を掬うような作業だったと、
その功労の後味を反芻しているかのようだった。
この監督自らの挨拶も、もう既にドキュメンタリー映画の一部であるかのようだった。
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posted by 二健 at 01:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月20日

映画「太陽」鑑賞

taiyou.jpg映画「太陽」は、ちょっとした話題作で、前から気がかりでした。
日曜に歌舞伎町の映画館「新宿ジョイシネマ」のモーニングショーで
見ました。午前11時半の開演時間ぎりぎりに入りましたが、いい席に
座れました。先行の「銀座シネパトス」では、連日立ち見ということ
だったので、最前列の席覚悟で臨みましたが心配無用でした。
ロシア人監督が昭和天皇の映画を作ったというだけで、わくわくして
ました。どんな切り口の戦争映画かと期待してました。見終わって、
人間性と社会性の機微を描いた芸術的な傑作だと思いました。
終戦時の天皇の言動を中心に淡々と進行する中、特に後の方のシーンに
泣きと笑いが同時にこみ上げました。可笑しくて哀しいことが一緒に描かれる映画には、
めったに出会いませんから、もうこれでけで見に来た甲斐がありました。
昭和天皇ヒロヒトに対する、好き嫌いや評価は千差万別でしょうが、
ロシア人のソクーロフ監督の想いと審美眼をこの映画で知りました。
終盤、アメリカ人の報道陣に庭園で写真撮影の場を設けて「ヘーイ・チャーリー!」と、
揶揄されまくるあたりは圧巻です。暫しの撮影の現場を去るヒロヒト天皇は、
「私は、あの俳優に似ているのかな?」と、本音とも恍けともユーモアとも取れる
台詞の一言で、勝負あったと思いました。
「あの俳優」とは、わが最も敬愛する映画監督兼道化俳優です。
庭園の場面の始まりに、一羽の放し飼いの鶴がいて、MPらか戯れようとしている
何気ないシーンも感慨深かったです。監督の繊細な配慮だと思います。
和のメタファーとしての鶴に感心しました。
会場からも押し殺したような泣き笑いの空気が伝わってきました。
これが映画館での醍醐味ですね。感動の共有空間ならではです。
深刻と滑稽という、わが俳句理念と合致した素晴らしい映画でした。(私は一応俳人です)
最後のクレジットの画面の、俯瞰アングルの下の方に、
白い鳥が飛んでいたことも強く印象に残っています。
                    16-1631
□公式サイト↓
 http://taiyo-movie.com/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
※初出のmixi日記-06.8.30「『太陽』見物」を改稿しました。
posted by 二健 at 12:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月02日

「単騎、千里を走る。」鑑賞

tanki01.jpg

高倉健が中国と関った映画というので、早速「単騎、千里を走る」を観た。
映画館は、伊勢丹明治通り側のビルの5階の「新宿文化シネマ4」。
横8席の7列で56席の小ぢんまりした部屋だった。勿論スクリーンも極めて小さい。
わざわざ映画を観に来たというリッチに気になれない。
男子トイレには、大小それぞれの便器が一基のみ。古くはない。
これで料金はいっぱしなのだから、ちょっと狐につままれたようだ。
しかし、映画の内容は大いに満足できた。幸い平日なので空いていた。

派手さはないが感動する場面が多々あり、倅を持つ身の父親としても感慨深かった。
中国の地元雲南省の出演者も素朴で好感が持てた。物語は現在の設定とはいえ、
政治や文化の違う中国の奥地の村への旅なので、時空観念のギャップが
立体感をもって感じられ、現存する異界に誘われたような奇妙な感覚を得た。
勿論映画制作における中国共産党の思惑も承知の上で鑑賞したが、
ことさら遜色はなかった。いかなる評判であろうとも、
良い国、良い国民であるかのように描かれるのは、予期していたことで、
当然事実や現実と虚偽粉飾や理想なども込みで思考した。
高倉健の無骨なほどの寡黙さは、誰とも比べられないほど孤高で
強靭な意思の人柄が忍ばれる。不言実行を地で行き続けている数少ない俳優だ。
寡黙といえば、高倉健より4歳下でフランス映画のアラン・ドロンを思い出す。
二人ともダンディでニヒルな一匹狼だ。信念や義理が単独行動の原動力となる。
口先の虚栄や理屈ではなく、実践するその一途な行動がものがたる。

今回の映画は中国という異郷の地の言葉等の壁と戦う高倉健の直向さと、
現地の人々との気持の触れ合いに見るべきものがあった。
中国の庶民と官憲、日本での確執を持つ息子(出演は声のみ)と、
その間を取り持つ善き妻等、登場人物は、いたって日常的だ。
ドキュメンタリータッチの映画だ。父に対して齟齬をきたし続けながら
死に行く息子の為しえなかった中国の仮面劇「単騎、千里を走る。」の
ビデオ取材を目的にするのだが、行く先の監獄で自らの人生と重複する
別な目的も生じてしまい、中国の奥地の村へ行くことになる。
そこの村長の云う「道理」への拘りは、東洋思想の最もたるもので、
その背景は人の道として慈悲であり寛容だった。日中は道義という絆で結ばれた。
人の誠や熱意が、言葉や文化の壁を越えて道理も人情も通じ合えることを、
映画をもって表現した作品だ。子を思う親の気持とその努力は通じて協力される。
昔ながら考えの村長は「子供は大人に従え」と言い、
高倉健演じる高田は「子供の意思を聞こう」と、西洋民主主義的意見を呈す場面が、
歯がゆくも、結果は道義に適う旅人の意向に任せる寛容が演出された。
映画そのものもさることながら、制作の現場や、その後の人的交流でも、
信頼と友好を深めたそうで、映画そのもの以上の収穫があったということだろう。
いや、そもそも映画というものは、そういう文化の武器なのだ。

高倉健は年取っても高倉健だった。
刃物を持たなくても高倉健だった。
一度見てもらいたいお薦め映画だ。
                               13-1156
□公式サイト
 http://www.tanki-senri.com/index.html

□東宝邦画作品ラインナップ
 http://www.toho.co.jp/lineup/tanki/
posted by 二健 at 08:35| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

「銀幕ノ幻想」庚申講説

TLCW-Ginmakuno.jpg

カチンコ東京幻想倶楽部 第10回映像作品
【銀幕ノ幻想〜Chimere du rideau d'argent〜】
 平成17年7月8日・9日・10日18:50〜/下北沢・短編映画館「トリウッド」
 出演:谷畑聡、ギネマ、南原健朗、齋木亨子(朗読)
 撮影監督:荒木憲司/技術:村岡勇治
 美術:カイエ綺花、麿/音楽:竹夏、麿
 協力:木村哲也、宮崎二健、JazzBarサムライ、(株)ODIN
 脚本・監督:麿/制作:東京幻想倶楽部/上映時間:12分
            http://tokyo-lunatix.com/menu.html
※この上映は、
えむぱい屋「モーレツチャンピオンまつり〜怪獣+幻想〜」に於いて
荒木憲司監督のSF最新作「モーレツ怪獣大決戦」(出演:唐沢なをき、
久保亜沙香他)と二本立てで上映された。始めが短編の「銀幕ノ幻想」。
 ____________________________________

麿監督の最新短編映画「銀幕ノ幻想」を観た。
たった12分間なのだが、かなり長く感じた。
目先を喜ばせるばかりではなく、掘り下げて来るものに心を奪われた。
それぞれの場面が耽美的で変化に富んでいた。
非叙述的な構造なので想像力をかき立てられた。
折り重なる余韻の連鎖を打ち消したり圧迫しない展開は、
ストレスなく幻の闇に惹き込まれる。
風波、色香、風俗、伝承、風刺、夢現(ゆめうつつ)など、
全て拮抗していて緩急に緊迫感があった。
男の切腹前の静寂さは、平面的な画面構成だけを取っても、
虚無と混沌に塗れた覚悟の魂が漲り、
観る者をカタルシスの坩堝に立ち込める芳香に導く。
三人の演者も、前半の男と後半の女の詩の朗読も雰囲気があり、功を奏している。
「まったくおまえはうすのろだ」と低く繰り返される罵声は、
フィードバックされ木霊する。
砂浜に外し置かれた二個の眼球、大映しの女の寄り目、
切腹部屋の背後の障子に描かれた痛恨の眼、
始めと終わりに現れる盲目の単独遍路。
カイゼル髭の男の鼻をかむ時の見開いた眼と切腹前の座った眼。
それらの眼光に挑発されつつ、我が眼は気張り続けた。

終幕の素朴なギターのアルペジオと波の音の哀感が、
未だに寄せては返し、返しては寄せてくる。

  幻想が幻想を呼ぶ波の音血汐漂う床に君在れ  二健

…そう感慨深く観終わって、一首で結んだ。
しかし、翌日の東京幻想倶楽部の掲示板で展開されていた真摯な書き込みに接して、
更に新たな感想が湧いてきた。
体の不自由な遍路のラストシーンで、例えば幻想の森の迷宮の扉を開く鍵を探して
いるかのような仕草で、和服の女ににじり寄り、胸元をまさぐっていた。
口を開けて首筋の臭いを嗅いでいた。
男に自刃で先立たれて自縛し損なった女の懐などには隠されているはずもなかった。
遍路は太鼓を叩いたら天井がびりついて鍵が落ちてくるとでも思ったのであろうか。

           *

そんな訳で、一つの仮説だが、「銀幕ノ幻想」は、
庚申講の突拍子もない映画表現だったのではないかと妄想し、
その脈絡に身を委ね、気侭な読みの旅をした。
「虫を出しまたか」という女の開口一番の科白は、
何よりもそれを象徴し、物語っている。
虫とは道教で言うところの三尸(さんし)の虫に違いない。
体内に潜伏し、その人の悪業を監視していて、謂れのある60日目に、
寝ている間に抜け出し、天帝に密告する。
天の神に悪のレッテルを貼られると、罪状に応じて寿命を縮められてしまう。
だから虫を出せと女は急かせたのだ。
三日後が予定日なのは、庚申信仰の使わしめが猿、
しかも見ざる言わざる聞かざるの三猿だ。
根拠はないが、今日は見ざるの日だから三日後なのだ。もうお分かりと思うが、
遍路は、あえて障害者の必然がある。よって独りで三猿を演じていたと解釈する。
庚申塔下部の三猿の上には、邪鬼を踏ん付けた青面金剛(しょうめんこんごう)が在す。
一面三眼六臂の神像だ。それを裏付けるかのように憤怒の眼や邪鬼が、
男の切腹部屋の障子に乗り移った如く描かれていた。
演者の腕の数を合わせれば六臂で勘定が合う。
三眼は、三尸とも通い、各虫の出入り口かも知れない。
そもそも青面金剛の手足には蛇が巻き付いている。
三白眼の女の自縛した縄が、蛇の隠喩だとすれば、
女は庚申講の本尊の青面金剛そのものだ。
威厳を形無しにして鼻をかむカイゼル髭の男は、三尸に巣食われた俗人だ。
三日後といわず、三匹といわず、ごっそりと虫を吐き出したのだが、
結局は天帝の命が下って、切腹を余儀なくされた。
生前の業は、障子絵と詩のナレーションと生き証人の女をもって描かれる。
不自由な遍路は下位の三猿として全ての辻褄が合う。
迷宮の扉の鍵探しは、太鼓の轟きを合図に遍路から観客に委ねられた。
女の二臂は合掌し青面金剛の後光を放ち続けている。

そんな迷宮に足掻いてみた庚申講幻想物語だった。

※初出=東京幻想倶楽部BBS「LUNATIK CAFE」、俳句天狗BBS「サムライブルース」
二稿の、ですます調をである調に改め、繋げて改稿した。 2005.7.12 Jiken
10-319
posted by 二健 at 15:33| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

ゆきゆきて、神軍 ―(1987)疾走プロダクション制作

yukiyukite-singun 0003.jpg

スタッフ〜監督:原一男/製作:小林佐智子/構成:鍋島惇/企画:今村昌平/
撮影:原一男/選曲:山川繁/編集:鍋島惇/録音:栗林豊彦/助監督:安岡卓治/
スクリプター:高村俊昭・平沢智・徳永靖子・三好雄之進・伊藤進一
製作協力:今村プロダクション/残像舎
                *
カチンコ原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」の主演者・奥崎謙三の逝去の段、
謹んでご冥福をお祈りします。
変電所員ということで徴兵を免れた我が親父と同齢でした。
親父は、群馬の田舎で平々凡々と、母親共々達者に暮らしております。

片や壮絶な生き方を貫いた奥崎謙三のことが、昔から気になっていました。とうとう
今更ながらも、まだ観ていなかったその作品を、ビデオで独りじっくり鑑賞しました。
噂通りの迫力でした。正に無骨なドキュメンタリー映画の傑作だと思いました。
カメラを前にして演技するなどという芸当は奥崎に出来たはずはなく、反体制の英雄
として美化した映画ではないと確信しました。奥崎は、只の凶暴な変人ではなく、
独り善がりながらも啓蒙の念に駆られた自我を全うする、一途な突出した人物でした。
老婆の手を取り墓に参り、哀れな死者に涙する奥崎の目に偽善の欠片も感じられません。
取り締まる警官に罵声を浴びせる言葉の端々にも、奥崎らしさが際立ちました。
正義感と人情の裏返しが過激な行動となって現れるも、自覚と責任感と自省の念を持ち、
わが身を律する人なのでした。既成のイデオロギーに拠らず、群れず、強きに立ち向かう
姿は天晴れでした。生き残った上官等を津々浦々訪ね歩き、戦争を体験した者として、
その醜さを開示せしめる言動の数々は、全て見所でリアリティーのある熱い場面でした。
高齢の上官達も、けっして裕福ではなくも、平穏な日常に突然降って湧いた戦争地獄の
忌まわしい記憶の彼方の再燃の強要にたじろぎ、反発し、その場を難なく収めようと
するのですが、結局は奥崎の入魂の押しに根負けして、真相が明らかになっていくので
した。その真相は人肉食いや部下射殺の史実解明、糾弾に留まらず、当事者は勿論の
こと、今現在の私達映画の観客も全て巻き込み、過去の戦争を通して人心の闇を暴いて
いくのでした。

スローガンの殴り書きで目一杯飾り立てた奥崎の軽のワゴン、または普通乗用車一匹の
戦闘物語でもありました。海辺の大きな景色に天道虫のような街宣車が、一台けなげに
走っているロングの画面には目頭が熱くなりました。
9-256
posted by 二健 at 18:37| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月22日

映画「Ray/レイ」鑑賞

カチンコ 映画「Ray/レイ」を観た。先日、川崎でのtenko氏主演のドキュメンタリー「私をみつめ」以外では久しぶりの映画鑑賞。新宿武蔵野館はさして広くない。予告中の同館の空席は前列のみだった。金曜の昼間なので空いていると思ったがそうではなかった。暇人はいるものだ。幸い二列目の真ん中に座ることができた。スクリーンは大きくないものの間近だったので、大スクリーンのようで全体を見渡すのに、首と目を動かす必要があった。近年老眼も進んでいるので字幕も読めたし、まあまあの特等席気分だった。なによりも観客が静かで、独り貸し切りのようであった。

 この種の映画では、1988年にクリント・イーストウッド監督の「Bird/バード」を観たことがある。ジャズ好きのイーストウッドは、あるインタビューで「…アメリカがもっている独自のアートは、ウエスタン映画とジャズだけだ。…」と言ったとかで、なるほどと思った。「バード」上映より17年も経過しているが、両映画共ほとんど同時代のアメリカの黒人音楽映画として時代背景やコンセプションなど共通点も多かった。しかし当然とも言える商業主義に準じたレイのポピュラリティと、ストイックにジャズの革新を続けるバードの孤高さは好対照的だ。分かり易く言えば、大衆が踊れる音楽と通の鑑賞に値する音楽に分かれる。しかし両者の功績と天才たる所以は娯楽性込みでも、その革命的芸術性にある。汗臭いソウルとスピリットが込められたサウンドの強かさは多くの人の心に響く。さらに、荒んだ社会の底辺からの出発であり、アメリカ文化の過程結果オーライの底力を見せ付けられる。アメリカ南部に発したブルースというルーツは同じものの、片やカントリー、ゴスペル、R&Bないしソウルのレイ・チャールズに対して、モダン・ジャズの台頭、つまりビー・バップ旋風の中核たるバードことチャーリー・パーカー。その両者は、40〜60年代のアメリカン・アフリカンのめまぐるしい創造的音楽シーンを同時進行していた。どちらの伝記映画もこの相互の存在状況は描かれていないので、承知して観れば、当時の突出した天才たちが浮き彫りにできて興味深い。貧困、差別、不具、才能、ドラッグ、酒、煙草、金銭、男女、旅、出世、仕事(ギグ)、友情、背徳、恋愛、破局、子供、母、故郷、神、生死、詩情、世俗、風刺等々、ありとあらゆる人生模様のオンパレードで、その上の究極は音楽の偉大さだという結論に結び付かざるをえない。なぜか「レイ」に登場した大勢の悪者は、ごく普通の人で、誰でもあの時あの立場なら、ああやるであろうと思える人たちだ。ジャンキーで浮気者だったレイ自身にも言える。悪事が発覚した時など、ばつ悪そうに自覚し、葛藤や改心的ニュアンスを漂わせるシーンが多かった。また、近年のアメリカ映画に限ったことではないが、白人優越的な表現にならないように気を配っていることをひしひしと感じる。「ラスト・サムライ」も主演者ネイサン・オールグレンの良心の呵責がインディアン迫害に加担したことだった。その他例を挙げれば暇がないであろう。「キルビル」に至っては日本のアクション映画敬愛の念が露骨だった。

 それと、言い忘れたが、「レイ」のスタート・シーンの一齣一齣の何と美しかったことだろう。心憎いほどのイントロダクションだ。ピアノの鍵盤のクローズアップからカメラが引けば、レイのサングラスへの映り込みだった妙技、故郷で干されて風に揺れているシーツ越しの黒人女性(たぶんレイの母親)のシルエットの動き、裸木に吊るされたカラフルな空き瓶は「奇妙な果実」のメタファーなのか、等々連続した象徴的映像が音楽と共に提示されて生唾を飲んだ。印象に残ったシーンは書き切れないほど多く感慨深かった。レイの妻となるデラとの出会いの立ち話のシーンを見ると、何て恋の始まりは美しいのだろうと羨ましく再認識させられる。その後は現実が押しかかってきて、生易しい恋どころではなくなるのだが。盲目のレイが電話中に相手の女性(たぶん後の不倫相手)の家の窓の外の花に来ているハチスズメ(スズメバチではない)の音を聞き取るのだが、ナイス・ショットな映像にハチスズメとは、ハチなのかスズメなのかどうでもいい事だが迷った。この音楽家の伝記映画も当然音楽が全てなのだが、何よりも母親あってのレイなのだと何度も明るい画面のフラッシュバックで描かれる。いかなる英雄も、そうなれなかった男たちも、本を正せば母と女性の賜物であり、その憧憬を秘めていることに疑う余地はない。

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  「Ray/レイ」 公開:2005/01/29 製作年:2004年 製作国:アメリカ 配給:UIP映画
  監督:テイラー・ハックフォード
  出演:ジェイミー・フォックス、ケリー・ワシントン、シャロン・ウォレン、
  レジーナ・キング、アーンジャニュー・エリス、クリフトン・パウエル他
  私が観た上映館:新宿武蔵野館 1月29日〜2月25日

※初出=BBS「サムライブルース」05.2.15 http://6112.teacup.com/samurai/bbs
7-129
posted by 二健 at 18:05| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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