2007年07月28日

小説「コロッケ」を読んで

緋川小夏作「コロッケ」
(新潮社主催の「第3回R-18文学賞」の最終選考に残った小説)
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「パチパチパチパチパチパチ」  626.gif

初めて拝読させて頂きました。

普段、小説を読む習慣がない私ですが、
ついつい引きずり込まれてしまいました。
触りだけつまみ食いしようとしただけですが、
二幕目でユキちゃんの仕事を知ってからは、
三幕、四幕…、結局面白いので終幕までいってしまいました。

もう何年もご無沙汰ですが、
実は、私はストリップが好きなのです。
衒わない総合芸術であり、人生の縮図であり、裏街道であり、
パンドラの箱であり、母体回帰であり、神社仏閣です。
あまり出歩く機会はない私ですが、地方に行けば、
ぜひ訪ねてみたい所が、ジャズ喫茶と寺社と猫のいる界隈と、
ストリップ劇場です。
思い起こせば、19歳で上京後まもなく好きものの先輩と
会社の軽トラックで松戸のストリップ劇場「大宝」へ
行ったのが初体験でした。
その時の言うに言われぬ衝撃は、今でも克明に覚えています。
闇に映える赤い花園の香りは芳しく眩いばかりでした。
その後、横須賀、横浜、新宿へも行きました。
時に和服の日本髪の年増ストリッパーは寂れていて同情しました。
そして10年後は、京都の東寺で立体曼荼羅や五重塔を
拝観した足で、近隣の東寺DX劇場へハシゴしたのでした。
この時撮ったポラロイド写真は、わが宝物となっています。
それから奈良で志賀直哉亭や大仏や阿修羅像を拝観した時も、
夜は一人で市内唯一のストリップ劇場へ行きました。
老いも若きも外人も濡れ弁天信仰願望とう一点集中は同じで、
人間皆兄弟と実感できる聖地そのものであります。

ということで、「コロッケ」の物語は、何をどう見せて
くれるのだろうと、わくわくしながら読み進みました。
物と心と、その交じり合いが、分かり易く印象的なイメージとなって、
わが脳裏のスクリーンに投影され展開されました。
惜しむことのない情交場面の描写、あくまでもユキに徹して…。
その状況の違いによって変化する感情と、
その高まりの相違と同一性の背反するリアリティ。
ユキのキャラクターは、正にサービス精神豊かな
小夏さんそのものだと思います。
アウトサイダーにスポットが当てられた
ペーソス漲る物語の虜にさせられました。
意表をついたオチながら、その日常回帰に何故か安心したのでした。
台所でコロッケを揚げている小夏さんの後姿を想像して、
私も夢から覚めました。

「お母さーん、おなかすいたよ、コロッケまだー」  27-2578
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▽マチともの語り 緋川小夏作品
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▽緋川小夏作「コロッケ」
 http://machi.monokatari.jp/croquette

※当レビューの初出は下記サイトのコメントです。
▽「コロッケ」最終話
 http://machi.monokatari.jp/croquette/item_3424.html?#nucleus_cf

posted by 二健 at 19:47| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 小説・随筆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月23日

「サムライ画廊1」総括

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sg-kh (2).JPG桃色川柳 「ひみつの花」 緋川小夏

  手のひらの中で濡れたる穂先かな
  絡まりて肌に食い込む赤い糸
  目を閉じて久方ぶりの君を味わう
  ため息が突かれるたびに押し出され
  居酒屋で抱いてと言えずに芋焼酎
  手折られるこの悦びに萌える春
  戯れと知りつつ溺れる情けかな



  sg-konatu.hara003.JPG
  私は写真を使って sg-konatu.hara004.JPG
  時間や空間や色々なものを 
  切り取ってしまう 
  私はとても欲張りだから 
  とっておきたいのだ 
  ここで出会ったできごとを 
  一枚の写真に凝縮させて…
 

    はらけいこ With Love 黒ハート 
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第1回目の「サムライ画廊」が終了しました。
東京幻想倶楽部を主宰する麿監督の企画した
「映像解放区7.15」の一環として、
緋川小夏氏とはらけいこ氏の共同写真展が
「サムライ画廊」の先鋒として行われました。

同展に注目された方は、「映像解放区7.15」の方々と
スタッフはもちろん、展示者の呼びかけで来られた数名の
お客様を始め、当店の常連さんでは、
摩有様、みっきぃ様、めぐみ様、未来様(出展希望)、
ギネマ様、協様らでした。皆様夫々一芸に秀でた方なので、
思う処は存分にあったことでしょう。
皆様は同展の証人なので、会った時にでも感想を聞かれると、
参考意見を宣ってくれるでしょう。

私が一番長い間鑑賞した訳ですので恐縮ですがちょっと感想を。
お二人の躊躇せぬ実行力と、瑞々しい感性に裏打ちされた
勢いの良い作品に感心しました。
構えず、背伸びをせず、等身大のストレートパンチのようで、
清々しい爽快感が感じられました。
こういうまたとない機会を生かした柔軟さと好奇心を、
いつまでも持ち続けたいと思いました。
花に取材した小夏作品の写真も川柳のあっけんからんとした秘密性、
しいては、その扇情性に凭れているかのようですが、そうではなく、
寄り添って遊んでいる無邪気さを新奇に感じて微笑ましくさえ思いました。
エロスのトリックスターとでも言いましょうか。
片や、はらけいこ作品に登場する人物、特にその全身ないし部分と、
その背景の描写から読み取れる感情の綻びのナチュラルさ。
今ここにこの現実に身を任せる者同士の、佇みと移動の浮遊感を
噛み締めるかのような詞藻のあしらい。
女性と子供の放つ吸引力のエナジーに吸い込まれます。
展示の壁面に向かって左翼の小夏作品のエロス。
対して、右翼のはらけいこ作品のほのぼのとしたアガペー。
愛の角度は違えども、求心力は同一点に向かっていた
神話的写真展でありました。  26-2525
______________________________________
▽初出:ブログ「サムライ画廊」
 http://samurai-gallery.seesaa.net/

posted by 二健 at 17:25| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(2) | 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月22日

「マコ太宰治をよむ―走れメロス」感慨

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(主催者としての謝意と感想です)

お蔭様で開演前に満席になり、お客様に恵まれた朗読会でした。
私も込みで俳ラ主客系の5名以外は、ほとんど奥山氏のお客様で席が埋まりました。
去年の桜桃忌公演初回の入りは寂しいものでしたが、
今回は打って変わって三倍の入りでした。
何をおいても奥山氏の箔のついた朗読芸と人望がものを言った一幕でした。
松本氏による尺八の音響付きで「走れメロス」の朗読を聞けたのは、
またとない機会でした。
物語上のメロスの葛藤する切羽詰った心境の振幅が、
メリハリのある朗読と尺八の呂律によって絶妙に表現されました。
静寂の空間を演出するために、窓を閉ざし肩を寄せ合っている会場ながらも、
あえて冷房を切っての実演でしたが、暑さも忘れさせるほどの緊迫感で、
終幕まで走り抜けました。
8本の持ち替え尺八も、朗読も、まったくの生の音で、
電気的増幅はなかったことも、真剣勝負のようで功を奏したと思います。
やはり、芸の音響の基本はアコースティックだと思います。

今回の朗読公演に接して「走れメロス」について、ことさら思いを新たにしました。
極限状態に置かれた、あるいは自らそうした人間が、
その状態の深刻度と濃密さが増すにつれ、どう思いあぐね、どう行動して行くのか、
その連続した過程のそれぞれにわくわくさせられました。
利己の鬼と利他の神の誘惑と信念に鬩ぎ合い、
徒に揺さぶられる人心の織りなす綾。
そして自己犠牲を余儀なくさせられる友情や義心の真価が表れる実践。
メロス当人は勿論のこと、王たる者の改心へと昇華へ導く結末で、
全ての柵や軋轢が開放され救済されます。
所詮作り話と言えども、人心の可能性としては真実味があり希望が持てました。

読書としてただ活字を追って読み進め、イメージする「走れメロス」にはない、
別物の、別格の「走れメロス」の緊迫した二重の高揚感が、
奥山眞佐子と松本浩和の「マコ太宰治をよむ」桜桃忌公演にはあったと思います。

来年の桜桃忌も乞うご期待です。
                            26-2407
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
■[SAMURAI LIVE 13]奥山眞佐子「マコ太宰治をよむ」
 桜桃忌公演 With 松本浩和(尺八)
・去年の太宰作品『美少女』朗読に次ぐ第二弾
□作品:『走れメロス』
□日時:2007年6月19日(火) 開場18:30、開演19:00
□会場:サムライ 03-3341-0383 □料金:2500円(1drink)

▽奥山HP「おとなってなに」→新着情報
 http://hw001.gate01.com/otonattenaniweb/
▽初出:BBS「サムライブルース」
 http://6112.teacup.com/samurai/bbs
         Poster Design & Pictures by Jiken.
posted by 二健 at 15:14| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月31日

映画「バベル」鑑賞

アメリカ映画「バベル」を観た。
元々旧約聖書のバベルの塔伝説には興味があった。

新宿の出来立てのシネコン「新宿バルト9」へ初めて行ってみた。
画材の世界堂の隣の大型ビルだ。新宿3丁目のバベルの塔か。
エレベーターはよくあるシースルー。目のやり場に困らない。
平日の朝一番の回なので、人は疎らだった。
…にもかかわらず全席指定とのことで、
エスカレーターで2階下のチケット売り場に戻され、
10数人の列に並ぶことになった。
がら空きの場内で、わが指定席G-13の隣席には、
ハンバーガーをガサゴソついばんでいる他所の女の子。
彼女は終わってラストクレジット中、暗いうちに退場された。
明かりが点くと、その席の床には紙ナプキンが散乱していた。
風袋からして私の狼藉と間違われそうで後味が悪かった。
いずれにしても、本道ではないそんなことには気をとられずに、
久しぶりの映画鑑賞を享受した。

始めは、なんだかなー?って心持だった。
モロッコ少年のモツコリやら岩陰でのシコシコ場面は、
70年代前後のATG(日本アート・シアター・ギルド)の兎小屋映画のようで
気恥ずかしかった。天下のアメリカさんのメジャー映画で、
そんなせせこましいことのリアリティ出さなくても…、と思った。
確か「サード」でもこれをやる場面があって赤面した。
やはり映画は独りで観るのが無難か。
赤面と感涙、これは独りで居る時に限る。
感涙はご最もなのだが、観客に赤面させるとはけしからん。

しかし、モロッコ少年の、他愛ない観光バス試し撃ち事件が
起こった時から見応えがあった。
物語は、モロッコとメキシコとアメリカの国境辺と、
東京が舞台で、それは因果関係がある現在進行形のドラマ。
夫婦でモロッコを旅している主役のアメリカ人の俳優は、
どこかで見たことがあるなと思ったら、
殺人鬼映画「セブン」の主役刑事のブラッド・ピットだった。
「バベル」と「セブン」は、キリスト教で云う悪徳の見地から
現代の人間社会の暗部を描いたという点では同類の映画だ。
文明社会への問題提起として、あるいは悪趣味もそれなりの
必要悪があって、興行収益を上げるために、
醜悪の限りを尽くして見せる映画作りも、
また逆説的に自由で平和な世の中なればこそと思う。

七つの大罪の当事者たる文明人へ天誅を加える「セブン」の
悪役の一匹狼。正義を守る狼と悪魔の狼の死闘によって、
何の疑いもなかった常識的な善悪の考え方が揺さぶられる。
もって行く場のない悲壮感だけては済まされない。

一方「バベル」は、人の世の遠い国、即ちまるっきり別文化の
三形態をリアルにリンクし、時空の枠を串刺し実相を暴き出す。
地球上の三形態の地点を直線で結べば、大きな三角形が描ける。
このことはイスラムの六芒星を成す三角形と合致する。
アメリカ映画だけに、ドル紙幣のピラミッドの図案とも
関係がありそうだ。(「ダビンチコード」っぽくなった) 
究極の話、母親に自殺された聾唖の女高生・綿谷チエコ
(菊地凛子)の自己アピールたるノーパンデルタに象徴される。
地球に跨ったマクロなトライアングルと、
極東の女子高生に集約させたミクロなバージンデルタ。

観念したモロッコの少年は銃を叩き折った。
別れの時、モロッコの村民は代償を受け取らなかった。
主役夫婦の子供を預かるメキシカンの乳母は強制送還された。
東京の聾唖の少女は生まれたままの姿になった。

アラビックな音楽と相俟って砂塵が舞う。
陽気なメキシカンが踊り、暴走する。
東京はメランコリーな夜を灯し続ける。


(初出のJiken mixi 日記に加筆推敲)
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2006 アメリカ 2007.4.28公開
<一発の銃弾が、孤独な心を繋ぎあわす…>
監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演 ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット
   ガエル・ガルシア・ベルナル、役所広司、菊地凛子
   アドリアナ・バラッザ
オフィシャルサイト http://babel.gyao.jp/       25-2318
posted by 二健 at 17:39| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月03日

映画「輪廻」のタイトルに思う

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ホラー映画への大きな期待はなかったが、
輪廻という、見過ごせない言葉が
タイトルだったので鑑賞した。

日本の今のミステリー・ホラー映画で、
物語は、35年前群馬県のホテルで起きた
猟奇殺人事件を元にしたという設定の
映画中映画制作の映画だ。
後半、犯人が殺人現場を撮影した八ミリムービーの
銀幕とロケ現場の奇怪な現象とが並立しながら
進行して行くなど、手の込んだ作りになっていて見所はある。
球体間接人形を携えるミステリアスな少女は、
耽美の極みで、最も印象に残った。

輪廻と言えば輪廻転生、生死、涅槃、流転、
転迷開悟、煩悩菩提、因果応報、弱肉強食、
食物連鎖等を連想する。
和歌の回文を輪廻とも。

輪廻は東洋思想の本質的最もたるものと思うが、
ホラー映画で、タイトルとして使われた場合は、
期待外れであっても当然かもしれない。
輪廻の本質を描いたものではなく、お墓行きの肝試しか、
遊園地のお化け屋敷の次元の延長のものだ。
エンターテイメントとしての映画は、
観客の感情を高揚せんがために、分かり易く説明的になり、
オーバーアクションになりがちだ。
ホラーの場合、いかに怖がってもらうかが眼目であろう。
怖いもの見たさの気持ちを高ぶらせることも、
売るための有効手段になりえるから、あの手この手で、
その手垢の付いた方法論でも構わず責め立てるのであろう。

死人がゾンビとなって迫ってくるだの、
死人の生まれ変わりが自分であったりする訳だが、
その恐怖感や驚きの表現に終始することが、
輪廻に集約されるとは思わない。
成仏できない死者が現前する恐ろしさを描くことは
ホラーの常套手段ではあろうが。
ホラー映画的解釈という条件付きでの輪廻なのだろう。

私の想う輪廻(転生)は、生死を繰り返す自然界、
しいては宇宙の法則(真理)だと理解している。
だからこの映画の輪廻観に違和感を覚える。
この映画そのものは決して悪くはないとして、
タイトルを的確なものにしたらなおいっそう
良かったと思うと残念である。
映画中映画のタイトル「記憶」ならば文句はない。
仏教用語は、和風ホラー映画のタイトルとして
使い易いのだろうが、本来の語義から乖離してしまっては、
東洋から発信する邦画としては情けない。
なぜならば、先進国の洋に対する和の深み(まこと)が、
あまり感じられないと思うからである。
世界の映画は娯楽に留まらず、
豊穣な人間文化でありえると誰しも思うからこそ、
なおさらである。

もうひとつの難点は、
最後の余韻に浸るべき時の歌がこの映画にそぐわないと思った。
輪廻という概念を、さらに空々しく感じてしまった。
比べるのはどうかと思うが「キルビル」や 「太陽」の
エンディングは実に素晴らしかっただけに残念だった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
監督:清水崇/製作:一瀬隆重/脚本:清水崇 安達正軌
出演:優香 香里奈 椎名桔平 他
(2005/東宝)96分・PG-12 2006年1月7日より全国公開

参考HP
▽Movei Walker - 輪廻
 http://www.walkerplus.com/movie/special/rinne/index.html
24-2131
posted by 二健 at 16:07| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月27日

工藤桂の弾き語りに接して

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春分の日の翌日の2007年3月22日(木)。
午後7時より新宿のJazzBar サムライにて。
サムライでは初舞台となる。

同店を金曜日に手伝っているギネマが、
音楽活動の場で工藤桂の音楽に感銘を受け、
縁を得たという手蔓でここに至った。

生では初めて耳にする一青年の弾き語り。
主な手持ち楽器はフォークギター。
しかし巷のフォークとは一線を異にしたものだ。
詞も唄う口調もよくある西洋風のそれではない。
ハーモニカを口にするが然りである。
一曲は据え付けピアノで弾き語った。
後半、カリンバ奏者HIROYUKIとの共演。
一曲一曲の入魂の味わいはもとより、
建前は独演ながら変化に富んだ構成も功を奏して
終始満場の観客を魅了した。

私は、どこぞの産土神にまつわる唄ではないかと感じた。
あの時代、この風土に吹き渡り、変幻自在に戦ぐ
東風ないし涅槃西風のように。
萌え咲いたばかりの草花が揺さぶられる。
目瞑れば、爪弾くものがギターから和楽器に持ち替わり、
いにしえの故国の言の葉をざわめかせる。
木漏れ日が交錯し、律動の波を呼び寄せる。
そんな眩く臨場感のある幻を覚えた。

赤ちゃんから御尊父、そして血縁他縁の工藤家の人々、
学生、楽師、芸人、作家、画家、職人、職員、会社員等、
主客入り混じった交感の夕べ。

いみじくも舞踏がそうであるように、
自身の足元を見据え、掘り下げるほどに
行方は不自由の彼方となることか。
それにも関わらず、行脚を続ける芸人魂。

工藤桂の持ち唄には「松代竈の女の記」という
土方巽門下の森繁哉の作詞の曲がある。
作曲は例によって工藤桂自身だ。

♪ 聞いてくれくれ 婆つき唄を
  唄ってくれくれ 娘つき唄を
  わたしゃ松代山郷の 与左衛門家のよせ名の婆様
  語ってくれくれ 世さ迷い話

  年しゃは十六 顔まだ紅い
  紅い顔なら 赤いべべ似合う
  紅い手など もみじの葉っぱ
  与左衛門 紅い顔欲しい
  欲しゃいとて嫁だ 欲しゃいとて嫁だ
  (後略)

どうやら瞽女(ごぜ)の唄のようだ。
他はどんな持ち唄なのか、曲名だけでも、
工藤桂+蕾裸の自主制作CD「はだかの歌声」から拾ってみる。

1.「ちゃるめら夜唄」 2.「少年」 3.「月夜の子守唄」
4.「縁やら本意」 5.「小さなあの子に」 6.「松代竈の女の記」
7.「ゆっさ」8.「夕暮風花」 9.「縫い子たちの朝」

曲名だけからでも伝わってくるものがあると思う。
ライブとCDで、一二度は聴いたはずなのだが、
まだまだ曲ごとの感想を述べるには至らない。
全体像を、語彙をもって大雑把に捉えるならば、

故郷、山河、季節、伝説、風物、祭、信仰、習俗、
家族、生活、労働等、それら描かれている景色や営み、
さらには心情から情念、躍動、鼓舞、敬愛、憧憬、寂寥、
旅愁、哀惜等へと、如実に聴く者の心の壁へ投影され、
感得に至るであろう。

現代的都会的な恋歌ではなく、すこぶる鄙振の部類だ。
1985年東京生まれ、東京在住の工藤桂が、
何ゆえ鄙歌なのかと不思議がることなかれ、
どこに居ようが、これぞ日本のフォークソングではないか。
宮崎県の北に故郷に持つことの影響も大であろう。
「ちゃるめら夜唄」では蜩が鳴き、
深山霧島が唄い込まれている。
工藤桂が弦を爪弾き、日本語で唄う姿に一度でも接すれば、
時流に乗った流行りものの音楽とは、まったく違うところに、
モチーフなり立脚点を置いていることに気付くであろう。
今後が楽しみな民の唄い手である。

折りしも七十二候では雀始巣(すずめはじめてすくう)頃、
工藤桂の囀る営み、そして大空への羽ばたき。
またいつか出会うことへの期待をもって
私は、私の日常へ戻ろう。

※以上BBS「サムライブルース」より転載
23-?
posted by 二健 at 00:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月15日

「AA」第一部鑑賞

JR水道橋の駅に降り立って、小雨まじりの銀杏黄葉を横目にアテネフランセに至る坂道を
急いだ。ことごとく真新しいビルと化した御茶ノ水の丘(神田駿河台)にあって、
間章が駆け抜けた70年代の佇まいそのままのアテネフランセの学舎が際立って見えた。
エレベーターはないので年季の入った階段で4階の映写室に赴いた。
何事にも几帳面な木村哲也氏は、すでに着席されていた。
滑り込みだったにもかかわらず、前の方でゆっくり座れ、
初回上映ということで青山真治監督の挨拶を聞けたのも幸いだった。
この長編のドキュメンタリー映画は、砂金を掬うような作業だったと、
その功労の後味を反芻しているかのようだった。
この監督自らの挨拶も、もう既にドキュメンタリー映画の一部であるかのようだった。
続きを読む
ラベル:青山真治 間章
posted by 二健 at 01:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月14日

『俳句空間-豈』43号紹介

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『―俳句空間―豈』43号 ANI 2006.OCT.〈特集・攝津幸彦没後十年〉
2006.10.1 豈の会(邑書林)
262p / B5判/ ISBN:4897095557 / 税込\1,575

▽邑書林のHP
 http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/
▽俳句の創作と研究のホームページ/橋本直
「豈」43号 特集:攝津幸彦没後10年でました。
作品論と俳句を載せています。
 http://homepage1.nifty.com/haiku-souken/
▽Kinokuniya Bookweb
 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%E6%AF
▽Yahoo!商品検索-「豈」の検索結果
 http://psearch.yahoo.co.jp/search?cop=mss&p=%E8%B1%88&ei=UTF-8
▽セブンアンドワイ-本-豈俳句空間43号
 http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=31796217
▽ほんつな 豈の会
 http://spn65088.co.hontsuna.com/

*写真左は豈43号の表紙。右は僭越乍小生の作品の頁の一部
21-1891
ラベル:俳句空間-豈
posted by 二健 at 22:59| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『攝津幸彦選集』紹介

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「豈」の攝津幸彦といえばこの選集に触れないわけにはいきません。
お薦めの一冊です。ブックカバーは攝津俳句に似合ったデザインです。

攝津幸彦著 攝津幸彦選集編纂委員会・島田牙城編
邑書林2006年08月発行 169頁 B6判 税込1,680円
ISBN 4-89709-544-1 C-CODE 0092 間村俊一装丁

【内容】
第1句集『姉にアネモネ』、第2句集『鳥子』、第3句集『與野情話』抄、
第4句集『鳥屋』抄。、第5句集『鸚母集』抄、第6句集『陸々集』抄、
第7句集『鹿々集』抄、第8句集『四五一句』抄、〜全作品より800句精選
・インタビューT 「恒信風」村井康司
・インタビューU 「太陽」平凡社
・攝津幸彦論「語録・文章・俳句から」筑紫磐井
・攝津幸彦略歴及び書誌  筑紫磐井編
・あとがき  攝津幸彦選集編纂委員会(池田澄子・大井恒行・
       酒巻英一郎・高山れおな・筑紫磐井・仁平勝)
・初句五十音順索引

【情報サイト】
▽邑書林のホームページ
http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/
▽はてなダイアリー > キーワード > 攝津幸彦
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D9%F0%C4%C5%B9%AC%C9%A7
▽Kinokuniya bookweb
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9981371106
▽大阪府立図書館蔵書検索 書誌詳細表示 攝津幸彦選集
http://p-opac.library.pref.osaka.jp/OSPLIB/webopac/kensaku/kensakuSyousai.jsp?tilcod=10020601080707
20-1890
ラベル:攝津幸彦
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2006年11月13日

「ウィーン美術アカデミー名品展」へ

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11日月の第2日曜日は、地図子さんから「是非行きなさい」ともらったチケットで、
ヨーロッパ絵画の400年「ウィーン美術アカデミー名品展」なるものを
観に行ってきました。最終日なので、混むのではないかと思い、
朝一番めがけて行きました。途中、朝食と昼食を兼ねて思い出横丁のつるかめ食堂で
腹ごしらえしてから臨みました。朝から食堂で酒飲んでご機嫌なご年配がいて
賑やかでした。私は好物のポテトサラダと天ぷらの定食を食べました。
目指すは、新宿西口の高層ビル42階の「損保ジャパン東郷青児美術館」ですから、
目と鼻の先です。早起きをしたので朝日が眩しかったですが余裕綽々でした。

エレベーターを一台待つ程度の混みようなので、たいした混雑ではありませんでした。
この夏に竹橋での藤田嗣治の展覧会の最終日に行った時は、長蛇の列で参りましたが。
今回の展覧会は、いろいろな名も知れぬ画家(私の無知)の寄せ集めで、
焦点が定まらなかったですが、全体として何となく雰囲気が分かりました。
ありとあらゆる油絵が80点位展示されていて、ウイーンに行く手間を考えれば、
大変ありがたい展覧会でした。ルネサンスの美術といってもぴんと来ませんが、
人間やその社会性の表現が濃厚になったのでしょう。
ウィーン美術アカデミーのコレクションで、女帝マリア・テレジアに仕えた
ランベルク伯爵から遺贈された絵画が基礎となっているのだそうです。

先ず、ヴァン・ダイクの小品「15才の自画像」(油彩・板)。見返り美少年。
何となく弊店に来る歌人の山下氏に似ていて苦笑しました。
ルーカス・クラナハ(父)の4点は板絵で、それと知らなければ気付かないで
通り過ぎてしまいます。「テンペラ・板(オーク)」などと表記したありました。
初めは額縁が板なのかと思って納得してましたが、キャンバスが板でした。
クラナハの「不釣合いなカップル」は、老人と若い娘が頬をよせあっている
羨ましい作品。同「ルクレティア」は、色白な全裸の女性が腰をひねって
バランスを取っているもの。
ペーテル・パウル・ルーベンスの「三美神」(油彩・板)には暫し見惚れました。
大きな花盛の器を共同で頭上に持ち上げている三人三様な裸婦の絶妙さ、
普通裸婦は寝そべっていたり、ただ立っていたりしているのが通り相場ですが、
この絵は力仕事をしています。だから筋肉の働きが全然違うのです。
力技の裸婦三体とは恐れ入りました。場面は鬱蒼とした森の中で、
画面の中央右に菱形にくり抜かれたような明るい空が描かれていて、
あたかも子宮内で戯れる三つ子の妖精のようでありました。
また、足元にも無造作に花が散らされていて、インドのリンガ崇拝を思い出しました。
本展のポスターになっているレンブラントの「若い女性の肖像」の、虚ろな瞳、
やや猫背、ぎこちない手の置き方などに、飾らない人間味を感じました。
旧来の建て前はなく、ありのままを描いてありのままの心を表現されたかのようです。
それにしても繊細なタッチのエリザベスカラー。一見年齢不詳に見えますが、
以上の理由で清楚で純真さが引き立てられていますから、
やはり若い女性ならではの美しさを描いた特筆すべき一枚です。
それと比べてマルティン・ファン・メイテンスの「女帝マリア・テレジアの肖像」の
なんたる威厳と貫禄ぶりでしょうか。座位で仰け反っているかのようです。
肉感も圧倒的です。女帝は「綺麗に描いてよ」と命令しているようです。
画家は「はい畏まりました」とひれ伏したのでしょう。
ドレスのレース模様をもの凄く緻密に書き上げていて驚きました。人間業の粋です。
作者は違いますが「若い女性の肖像」と「女帝マリア・テレジアの肖像」は、
女性像の対極にあると思いました。
こう比較すると人間に対する諧謔が浮き立ってきます。
娘の虚ろで清楚や恥じらいに対して、女帝の威風堂々とした風体。
それぞれ闇雲に誇張することなく、卓越した技で奥ゆかしく描かれていて感服しました。
渋い色調でありながら、リアリズムを突き抜けた人心の真の光が輝いておりました。
ピーテル・ブールの「地球儀とオウムのいる静物」の布や金属皿の質感のリアルさにも
度肝を抜かれました。
メルヒオール・ドンクーテルの「番の孔雀」「争う鶏のいる庭」の孔雀の羽などの
描き込みは、それはそれは見事なものでした。今回の作品に登場した動物たちは、
押しなべて厳しく生きているものばかりで感慨深いものがありました。
ヤン・フェイトの「猫の習作」(17世紀)は、筋骨逞しい山猫6匹が、
皆怒っているポーズで異彩を放っていました。立ち上がった猫や仰向けになった猫もいて、
遥か昔の日本の鳥獣戯画(12世紀〜13世紀)を彷彿しました。
ルーベンスの助手とヤン・ウィルデンス「乳を飲ませる牝の虎」は、
画面いっぱいに厳つい母虎が小虎に授乳している姿ながら、
地べたに葡萄が散らしてあって奇天烈でした。虎は葡萄など好きではないはずですから。

その他諸々ありましたが、切りがありませんのでこの辺でお暇します。
今のように便利な機械を使わずに、筆と絵の具で描き表した昔の人は、
つくづく偉いなと思いました。いいものを観ると又一つ賢くなったような気がします。
常設のゴッホのヒマワリとセザンヌのとゴーキャンのと、
皆本物の3点の絵とは久しぶりの再会でした。
暫しのお付き合いありがとうございました。

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posted by 二健 at 08:39| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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