2006年10月17日

『ぼくの昭和ジャズ喫茶』の架け橋

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2006年10月中旬の土曜日に著者が来店され同書を賜った。
高瀬氏は昔弊店で行っていたもののふ句会の仲間だった。
大阪へ転居されてからは縁遠くなってしまったが、
映画やジャズ喫茶の本作りや芝居のプロデュースで、
しばしば上京されるようになって復縁した。
氏のお姉さんは、ドイツを中心に活躍している
フリージャズピアニストの高瀬アキである。
cf.↓
※多和田葉子+高瀬アキ「詩人の休日」06.11019
 於東京両国・シアターΧ(カイ)
 http://www.theaterx.jp/06/061119.shtml

時々出版されるこの種や類の本は、
著者を始め、係わる人の熱意のたまもの、
つまり貴重な文化情報の果実そのものだ。
『ジャズ喫茶に花束を』(02年村井康司著)その他もそうであったが、
日本固有のジャズ喫茶文化にエールを贈り続ける本作りだ。
ジャズ喫茶の灯を好んでくれる人達にとって、
これらの本は正にジャズ喫茶の一店そのものと変わりない。
自宅やアパートや学校や会社を離れて、身を寄せる場がある。
その営業形態や有様は変っても、ジャズ喫茶の光りが灯り続けている。
昭和のジャズレコードの鳴る場に交わり通過し、
それに培われた人々の心の拠所が、相変わらずメディアは勿論、
現存するジャズ喫茶でありジャズ本だ。
こうやって、思い出と現実に橋が架けられて、
思うように交通できることは幸せに違いない。
______________________________________

高瀬進著 06.10.10 展望社 1400円+税
第1章 新宿の匂い
第2章 ジャズ喫茶を支えたマスター達
第3章 ジャズ喫茶巡礼
第4章 ジャズ喫茶の名物ママ
第5章 再びジャズ喫茶巡礼
第6章 大阪へ
第7章 ジャズ喫茶クロニクル

▽紀伊國屋書店BookWeb
 https://bookweb2.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9981241652
▽Amazon.co.jp
 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4885461642

18-1712
追記を読む
posted by 二健 at 22:51| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『逢いたくなっちゃだめ』 (俳句付写真集)

aitaku-amazon.jpg

なんとも可愛くて、
可愛いだけじゃなくて、
短い言葉のおまけ付き。
子猫のあったかさ、
子猫のまんまのあたたかさ。
たまたま猫の赤ちゃんで、
たまたま言葉の赤ちゃん。
あたたかくて切ない二つが、
けなげに生き合っています。
あたたかくて切ないだけじゃなくて、
生きていること、
生きること、生きぬくことを、
ほんわかと気付かせてくれます。
そんな写真集であり、
文芸の友です。
=^_^=

_____________________________
200512.26 あおば出版 写真/板東寛司, 選と文/青嶋ひろの
▽Amazon.co.jp
 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4885461642
                         17-1711
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2006年09月20日

映画「太陽」鑑賞

taiyou.jpg映画「太陽」は、ちょっとした話題作で、前から気がかりでした。
日曜に歌舞伎町の映画館「新宿ジョイシネマ」のモーニングショーで
見ました。午前11時半の開演時間ぎりぎりに入りましたが、いい席に
座れました。先行の「銀座シネパトス」では、連日立ち見ということ
だったので、最前列の席覚悟で臨みましたが心配無用でした。
ロシア人監督が昭和天皇の映画を作ったというだけで、わくわくして
ました。どんな切り口の戦争映画かと期待してました。見終わって、
人間性と社会性の機微を描いた芸術的な傑作だと思いました。
終戦時の天皇の言動を中心に淡々と進行する中、特に後の方のシーンに
泣きと笑いが同時にこみ上げました。可笑しくて哀しいことが一緒に描かれる映画には、
めったに出会いませんから、もうこれでけで見に来た甲斐がありました。
昭和天皇ヒロヒトに対する、好き嫌いや評価は千差万別でしょうが、
ロシア人のソクーロフ監督の想いと審美眼をこの映画で知りました。
終盤、アメリカ人の報道陣に庭園で写真撮影の場を設けて「ヘーイ・チャーリー!」と、
揶揄されまくるあたりは圧巻です。暫しの撮影の現場を去るヒロヒト天皇は、
「私は、あの俳優に似ているのかな?」と、本音とも恍けともユーモアとも取れる
台詞の一言で、勝負あったと思いました。
「あの俳優」とは、わが最も敬愛する映画監督兼道化俳優です。
庭園の場面の始まりに、一羽の放し飼いの鶴がいて、MPらか戯れようとしている
何気ないシーンも感慨深かったです。監督の繊細な配慮だと思います。
和のメタファーとしての鶴に感心しました。
会場からも押し殺したような泣き笑いの空気が伝わってきました。
これが映画館での醍醐味ですね。感動の共有空間ならではです。
深刻と滑稽という、わが俳句理念と合致した素晴らしい映画でした。(私は一応俳人です)
最後のクレジットの画面の、俯瞰アングルの下の方に、
白い鳥が飛んでいたことも強く印象に残っています。
                    16-1631
□公式サイト↓
 http://taiyo-movie.com/
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※初出のmixi日記-06.8.30「『太陽』見物」を改稿しました。
posted by 二健 at 12:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月16日

句集『帆を張れり』部分評

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■うまきいつこ第一句集句集『帆を張れり』2006.4.1 邑書林刊 税込2500円
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  薄氷に羽毛ひとひら帆を張れり  いつこ

書名を含む代表的な句なので、序の林翔と跋の櫂未知子が共に高評を記している。
私はこの句に接して先ず、チック・コリア・リターン・トゥ・フォエヴァーの
「ライト・アズ・ア・フェザー」というLPを思い起こした。
早速レコード棚から引っ張り出して、ターンテーブルに針を落としてみた。
ある意味で懐かしいサウンドを耳にしながら、縦長で清楚な句集『帆を張れり』
をひもといた。LPは、1972年の清々しいフュージョンのさきがけ的ジャズ・
アルバムだ。50年代のクールないしハード・バップと、
60年代のフリー・ジャズ旋風、そして70年代にはポスト・フリー・ジャズと
流転して昇華する。ポスト・フリー・ジャズとは、名評論家の故油井正一の言葉を
借りれば、「フリー・ジャズの成果を踏まえた上で、反省と新しい建設を志向する
ジャズ・スタイル」ということで、フリー・ジャズは、それ以前に試行錯誤しつつ
確立されたモダン・ジャズ・イディオムを始め、あらゆるカテゴリーへの拘りを
踏まえている。

ならばご縁を戴いたうまきいつこの俳句ではどうであろうか。
表題句に即して言えば、地と水の表層たる薄氷と、そこに乗じた生きもの発、
天からの羽毛の影の有様に直感し、それを象徴的に詠み取った。
羽毛は抜け落ちてお仕舞いではなく、主を失くして更なる孤の旅路につかんと
している一瞬を見てとったのである。混沌の果ての一片(ひとひら)の静寂は、
巡り来るであろう更なる混沌への対峙の覚悟を秘めているかのようだ。
楽曲「ライト・アズ・ア・フェザー」と、句集『帆を張れり』の静寂の鼓動は、
躍動する輪廻の一瞬の瞬きを見逃さなかった。
ちなみにこんな句もあった。

  失業の胸にそよがす赤い羽根  いつこ

帆を張るべく羽根も運悪く人に毟られて、赤く染められてしまう。
羽根が職のない人と共にそよぐのもまた第二の生かされ方。
どちらかと言うと、こちらのほうがヒューマニズム濃厚で、俳味があり好みだ。
二句しか取り上げなかったが、細かく読んでいくと面白そうな句集だ。
ご冗談好きないこいつこ氏の俳句は、結構お澄まししているので、
返って意地悪く読んだ方が、味が出ると思うのは私だけだろうか。

腑に落ちないところは巻末の著者略歴に、「沖」同人と俳人協会会員とはあるが、
「里」同人の表記がないこと。これが原因で破門した人とされた人を知っているが、
自由な風潮の「里」に限っては、そういうことはないであろう。
所属明記に関して考えさせられた一幕。そこで悪乗り一句

  所属より個人がだいじ桃の花  二健
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※初出のBBS「俳の細道」06.4.8〜10 二健投稿を加筆改稿しました。
                                15-1288
posted by 二健 at 13:45| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月14日

奉納プロレス観戦感

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■2006年4月1日(土)奉納プロレス『大和神州ちから祭り』
 於靖國神社相撲場/15時開場、16時開始、19時頃終演
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行って参りました。昼夜に渡る桜満開の神社でのプロレス興行に。
とくと堪能しました。合流したのは、弊店従業員のみっきぃさんと、
彼女の勤める会社の方らと、高3になる倅の7人でした。
みんな格闘技好きという共通の趣味で結ばれました。

会場では、その他4名の知人に会いました。
お目当ての本田豊國画伯と奥方と、お付きの弊店ご常連の高橋氏に会えたのは
幸いでした。花道を歩いていたら元従業員のはまちゃんに発見されました。
高橋氏にはわざわざ総合プロデューサーのご紹介に与かりました。
本田画伯は、独り黙々と虎の巨大墨絵に筆を振るっておられました。
筆墨の横で、ずっと付き添って見詰めていた童女との対比が微笑ましったので、
デジカメを手にした奥様に「子供との関係がいい感じですね」と言って、
その風景をケータイカメラに収めました。

墨絵用特設巨大キャンバスの前に陣取った葛飾諏訪太鼓の数々も雄大でした。
プロレスの本番前に神妙な祝詞や火入れの儀の神事や、
国旗掲揚兼国歌斉唱がありました。斉唱の中、桜越に日の丸の旗がするすると
上がってゆきました。その時、起立せずに寝そべっている輩がいたりして、
これも春の風物詩みたいなもので長閑な風景でした。
桜日和の野外の客席は、食事飲酒自由、喫煙指定場所で可ということで、
神域にしては自由度が高くて好感がもてました。
私は、場所取りした所を離れて、あちこち出歩きました。
別な角度から観戦すると、また違った発見があるものです。
高額な最前列の席の横で遠慮気味にしゃがんで見ていたら、
若いスタッフから、「自分の席にお戻り下さい」と注意されました。
別な所でも何度か追い立てられましたが、ごもっともなことです。
リングの四方の隅に篝火が炊かれていましたから、
それに吸い寄せられるように行ってしまったのです。
わが先祖は夏の虫だったのかも知れません。
ちなみに篝火の火の元は薪ではなく引き込まれたガスでした。
ごもっともなことでした。

わが期待の小柄な村浜武洋は、対戦相手の空手家小笠原和彦に見事勝ちました。
二回もきれいな一本背負いを繰り出したり、ロープに逃れられましたが
素早い腕ひしぎ逆十字固めも見事でした。
ギャンブルの上の借金苦で有名な安田忠夫も健在で、テレビで見た昔のとおりでした。
特に代わり映えはありませんでした。遠目の本物もやはり大男でした。
川田利明、高岩竜一、後藤達俊らも初めて生で見ました。
急遽、大仁田厚の「奉納プロレス提供試合」があり、
登場するや否やあちこちで折畳椅子を振りかざしての場外乱闘となり、
会場が騒然となって最高潮となりました。
喧嘩を見せるのが商売のド根性サービス振りを見せつけられました。
痩身のランジェリー武藤なる黒いブラジャー着用の輩もいたりして苦笑しました。

大仁田戦では、夕闇が迫ってきていて戦国絵巻図絵のようでした。
桜散り、砂埃舞い、旗指物や和太鼓、篝火、けしかけるMC。
人馬入り乱れての野次馬冥利に尽きました。
平和とは一律的な暴力否定ではなく、こういうことなのだと再考しました。
今更私くんだりが改めて言うまでもないことですが、プロレスの選手は
立派な芸人で、古代ではオコとかワザオギに比肩する人と思います。
つまりは本来的俳優ではないかと…。よってプロレススピリッツは、
スポーツ精神云々ではなく、身体を張った芸人根性なのだと痛感しました。
しかし芸人という括りでは収まらないとも思います。
それは、現在わが国に端を発する格闘技系興行の世界への波及現象全般に
言えることですが、現代版の新武士道の実践とその収穫だと思うのです。
今は、帯刀や決闘するわけにはいかないので、
鍛えられた心身や興行としての経済力が武器なのでしょう。
興行として成り立つことが肝心なのは申すまでもないことです。
その上での真剣さと道化を併せ持つ代理闘争やらひ悲喜劇実演請負業。
つまり我流俳句根底説で云うところの持論「深刻と滑稽」です。
リング上や場外乱闘の泣き笑い劇の即興演出と展開。
観客の感情の昂ぶりを呼び起こし呼応するレスラーやアナウンス。
江戸時代に遡れば、芝居も歌舞伎も相撲も、観客と芸人の交感が
一体となったことでしょう。
時と場合に因りますが、感情を押さえて物静かに鑑賞することが、
普遍的な品位ある常識とは一概には言えません。
色々思い当たりますが、格闘技は人生の縮図です。

プロレス観戦に戻って、私の地べたにシート敷きの定位置の左横で、
二人の園児と思しき男の子が、プロレスを見ながらお喋りをしていました。
その話の雰囲気や内容が面白くて聞き耳を立ててました。
素直な疑問やら感想や提言はユニークで、感心しました。
子供もそれなりに冗談を飛ばしていて面白かったです。
私の子供の頃の体験で申せば、映画やテレビを一箇所に集まって見る村人の
感情の表れの印象が、やけに脳裏に焼きついています。
映画が終わると必ず拍手が起こりました。始まる時にもです。
力道山のプロレスは、その最もたるものです。
田舎の小学生だった私も他所の家に見せてもらいに行ったものです。
大人たちの感情の露出が自然で素直な時代だったと思います。
大人には懐疑的な私でしたが、その無垢に思えた感性には好印象でした。
良いものを見たときには良い顔をしてました。
誇らしいものを見たときには、誇らしい顔をしてました。

全女のアメージング・コングというアメリカ人の本物の女子プロレスラーの
混ざった試合もあって致せり尽くせりでした。
精鋭では日高郁人と藤田ミノルが印象深かったです。
夜の帳が下りたトリは「AWA世界ヘビー級選手権試合60分1本勝負」。
チャンピオン大谷晋二郎 VS 挑戦者大森隆男で、大森がアックスボンバーからの
片エビ固めで勝利し、第35代王者になりました。

プロレスの各試合のことまで及びませんでしたが、この辺でお別れです。
一緒に見た人の歓声やお喋りも込みで観戦冥利につきました。
私にとっては非日常で感動的体験を積んだ午後の昼夜でした。
敷物を携えて、靖国神社のライトアップされた夜桜に目を奪われつつ、
自転車で靖国通りの岐路につきました。

prowres054.JPG prowres062.JPG prowres059.JPG
                           Photo by Jiken
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※初出のBBS「サムライブルース」06.4.2/二健投稿を加筆改稿しました。
                                14-1267

〔参考ホームページ〕_(_^_)_

▽PRO-WRESTLING ZERO1-MAX official site
 http://www.zero-one-max.com/

▽プロレスの隠し砦
2005年の『大和神州ちから祭り』靖国奉納試合動画あり
 http://www.valis.tv/W017-AW08-M00027/toride.html

▽HONDA WORKS/本多豊國
「靖国神社奉納プロレス・墨絵ライブ」を実践
 http://www.nekomachi.com/
posted by 二健 at 03:30| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 格闘技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月02日

「単騎、千里を走る。」鑑賞

tanki01.jpg

高倉健が中国と関った映画というので、早速「単騎、千里を走る」を観た。
映画館は、伊勢丹明治通り側のビルの5階の「新宿文化シネマ4」。
横8席の7列で56席の小ぢんまりした部屋だった。勿論スクリーンも極めて小さい。
わざわざ映画を観に来たというリッチに気になれない。
男子トイレには、大小それぞれの便器が一基のみ。古くはない。
これで料金はいっぱしなのだから、ちょっと狐につままれたようだ。
しかし、映画の内容は大いに満足できた。幸い平日なので空いていた。

派手さはないが感動する場面が多々あり、倅を持つ身の父親としても感慨深かった。
中国の地元雲南省の出演者も素朴で好感が持てた。物語は現在の設定とはいえ、
政治や文化の違う中国の奥地の村への旅なので、時空観念のギャップが
立体感をもって感じられ、現存する異界に誘われたような奇妙な感覚を得た。
勿論映画制作における中国共産党の思惑も承知の上で鑑賞したが、
ことさら遜色はなかった。いかなる評判であろうとも、
良い国、良い国民であるかのように描かれるのは、予期していたことで、
当然事実や現実と虚偽粉飾や理想なども込みで思考した。
高倉健の無骨なほどの寡黙さは、誰とも比べられないほど孤高で
強靭な意思の人柄が忍ばれる。不言実行を地で行き続けている数少ない俳優だ。
寡黙といえば、高倉健より4歳下でフランス映画のアラン・ドロンを思い出す。
二人ともダンディでニヒルな一匹狼だ。信念や義理が単独行動の原動力となる。
口先の虚栄や理屈ではなく、実践するその一途な行動がものがたる。

今回の映画は中国という異郷の地の言葉等の壁と戦う高倉健の直向さと、
現地の人々との気持の触れ合いに見るべきものがあった。
中国の庶民と官憲、日本での確執を持つ息子(出演は声のみ)と、
その間を取り持つ善き妻等、登場人物は、いたって日常的だ。
ドキュメンタリータッチの映画だ。父に対して齟齬をきたし続けながら
死に行く息子の為しえなかった中国の仮面劇「単騎、千里を走る。」の
ビデオ取材を目的にするのだが、行く先の監獄で自らの人生と重複する
別な目的も生じてしまい、中国の奥地の村へ行くことになる。
そこの村長の云う「道理」への拘りは、東洋思想の最もたるもので、
その背景は人の道として慈悲であり寛容だった。日中は道義という絆で結ばれた。
人の誠や熱意が、言葉や文化の壁を越えて道理も人情も通じ合えることを、
映画をもって表現した作品だ。子を思う親の気持とその努力は通じて協力される。
昔ながら考えの村長は「子供は大人に従え」と言い、
高倉健演じる高田は「子供の意思を聞こう」と、西洋民主主義的意見を呈す場面が、
歯がゆくも、結果は道義に適う旅人の意向に任せる寛容が演出された。
映画そのものもさることながら、制作の現場や、その後の人的交流でも、
信頼と友好を深めたそうで、映画そのもの以上の収穫があったということだろう。
いや、そもそも映画というものは、そういう文化の武器なのだ。

高倉健は年取っても高倉健だった。
刃物を持たなくても高倉健だった。
一度見てもらいたいお薦め映画だ。
                               13-1156
□公式サイト
 http://www.tanki-senri.com/index.html

□東宝邦画作品ラインナップ
 http://www.toho.co.jp/lineup/tanki/
posted by 二健 at 08:35| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月08日

『住宅顕信』を読む

 2004年の4月初旬の週末に子連れで里帰りしてきました。電車は始発の上野駅から終点の万座・鹿沢口駅まです。思春期の子供たちとは特に話はないだろうと思い、片道2時間40分の旅路の友として一冊本を持参しました。同年の正月に日本橋丸善で買ったままだった『住宅顕信』(池畑秀一監修 2003.3.1小学館刊)という、25歳で病死した僧侶で自由律俳人の俳句と半生を綴った本です。実は四月馬鹿の日に来店されたS氏が「最近、仕事が暇だから自由律の本を読んでいるよ…」とか、切り出されたので、私が「じゃぁ住宅顕信(スミタク・ケンシン)という最近の…?」と言うや否や、鞄からカバーを外した白い本を出され「これですか?」と言われたので、あまりにもどんぴしゃりなので驚きました。S氏は「先人のエピゴーネン云々」とか批判されましたが、私は同書を持っていながら、読んでいない後ろめたさを恥じながら、浅はかな知識でも一応対応しておいて、後でちゃんと読めばいいと思いました。そこへ出勤日でもない従業員のG氏がうやうやしく来られ、熱い烏龍茶など注文されて、S氏の手にしている未知なる自由律俳人の本に目に留めました。彼女は帰りの電車の中で読みたいと、彼から借りて帰ったのでした。
 そんな経緯もあって、いくら読書不精の私も、その話題の俳句本を読まない訳にはいかなくなりました。S氏もG氏も私も、もののふの会の「独演!俳句ライブ」に出演して、自由律俳句をこよなくする者であるからしてなおさらです。それどころか我々は、山頭火も尾崎放哉も住宅顕信もやらなかった朗読表現に拘っているからこそ、顕信のことを知らずにはいられないという思いがいっぱいでした。確執や誤解の許に遠ざかった夫人の残した一人息子を、病室で面倒を見た顕信の父性や、只ならない両親や妹の繰り広げる現実のドラマを察すると、顕信俳句以上の人生の機微に思いを馳せてしまい哀れさも一入でした。もし自分だったらと考えると、いたたまれなくなります。プロレタリア川柳の鶴彬(ツル・アキラ)もそうでしたが、句を詠む動機や目的が単なる楽しみだけじゃなくて、個人的に確とあって、若い息吹のその一途さに背筋が正されました。
 私事ですが、帰郷の列車の中で読んだ『住宅顕信』の闘病生活など恵まれない中でも直向な人生を思えば、はるかに幸せな現役の俳人として、顕信のささやかな志や魂の燻りを戴き、引き継けたら幸いと思います。
 次に印象に残った句を拾い出してみます。

  カーテンぐらいは自分でと病んでいる
  笑顔浮かべたお湯が流れる
  わずかばかりの陽に来て人もスズメも
  陽にあたれば歩けそうな脚なでてみる
  念仏の白い息している
  父と子であり淋しい星を見ている
  かあちゃんが言えて母のない子よ
  子には見せられない顔洗っている
  抱きあげてやれない子の高さに坐る
  水溜りにうずくまり父と子の顔である
  夢にさえ付添いの妹のエプロン
  手が汗ばんでいる夢を見ていた
  ねむれぬ日々の枕うらがえす
  寝れぬ夜の顔あらっている
  子につんぼと言われていたのか
  また帰ってくるはずの扉開けて出て行く
  待ちくたびれた傘が立っている
  ずぶぬれて犬ころ
  捨てられた人形がみせたからくり
  無表情な空に組み立てられた黒い花輪だ
  人焼く煙突を見せて冬山


 山頭火と放哉の句の影が濃厚なのは、顕信が傾倒したのだから当然と言えます。その当然を乗り越える前の夭折ですから、勢いや情熱、感性のみずみずしさを感じ取るべきだと思いました。特に自由律の場合は、有季定型の俳句らしさに守られることはありませんから強い個性の味が左右すると思います。軽率な自由律俳句は薄っぺらな印象しか与えられません。数ある顕信の句にも共感を呼ばないものも散見します。しかし顕信ならではという句と巡り会えた喜びは一入でした。
 「かあちゃんが言えて母のない子よ」は、離婚して子の前に現れない実母ではなくて、顕信の老いた母に向かって「かあちゃん」と言っている哀れな幼子を描いています。「抱きあげてやれない子の高さに坐る」「水溜りにうずくまり父と子の顔である」などは恵まれた身体のわが体験としても感銘できる哀しい句です。母なしの父子の景は、その大切なものの欠落が哀れです。「子につんぼと言われていたのか」は、顕信の病が進んで耳が不自由になったという現実あっての句です。世間常識のご法度言葉は負の言霊が漲ってます。しかし時と場合によって正の言霊に反転してしまいます。その良い例だと思います。「ずぶぬれて犬ころ」の短律は、顕信の句として代表格でしょうが、「犬ころ」の俳言そのものが健気で哀れです。その「哀れ」とは、私が思うところの俳句ならではの上り詰めた要で、詩俳混交の賜物です。「捨てられた人形がみせたからくり」「無表情な空に組み立てられた黒い花輪だ」は、理が勝っているような句ですが、リアルな視座とシビアな想いの諧謔が重くのしかかってきます。
 私より、ちょうど10歳若かった顕信が生き長らえていたなら、会って俳句談義をすることもできたでしょうから、夭折は悔やまれます。現今、若くて一途な自由律俳人にはお目にかかれませんから。今回、書物上だけでも接することができて一歩も二歩も先進できました。
 
  何はなくとも住宅顕信  二健

※本文は、2004年4月5日に、BBS{俳の細道}へ投稿したのが初出で、
書き改め整理してここへ発表した。2005.12.8
12-943
posted by 二健 at 21:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 俳句 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月14日

感激「あ・うん」観劇

awn-rika.jpg

  _____________________________
  ◎立川志らく劇団「下町ダニーローズ」第5回公演 「あ・うん」
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  日時:2005.11.8(火)〜12日(土) 開演15:00〜/19:00/
     ※12日(土)のみ14:00〜 /18:00〜 全10公演
  会場:神楽坂・theatre iwato (大久保通り)
  料金:前売3,000円 当日3,300円 全席自由 (チケット予約で完売)
  出演:柳家一琴 立川志らく 酒井莉加 山咲小春 長宗我部陽子 林家彦いち
     原武昭彦 立川談四楼 阿部能丸 立川文都 三遊亭楽春 内藤忠司
     平地レイ 入月謙一 桜井麻美 鈴木夏未 河合謙介 片岡一郎
     高慎太郎 奥中惇夫 根本順善 立川志ら乃 立川こらく 立川らく太
  特別出演:小林美江(東京ボードビル)

  □参考URL
  「立川企画」
  http://home.c07.itscom.net/tatekawa/

  「一琴のちょっとひとこと」 (※ここからお写真拝借致しました)
  http://members.jcom.home.ne.jp/yanagiyaikkin/

  「酒井莉加トップ」
  http://www.geocities.jp/sakai_rika/
______________________________________

小春日和の昼下がり、立川志らく劇団「下町ダニーローズ」第5回公演「あ・うん」を
観に行って参りました。役者の莉加ちゃん(水田さと子役)や、一琴さん(水田仙吉役)
ファンのキムテツさんが、前もって予約しておいてくれたので、私は当日行けば良い
だけなので助かりました。30分前に行ったのですが、氏は既に並んでおられました。
キムテツさんと仲良く最前列体育座りで、期待のお芝居を十分堪能しました。予約者
だけで超満席の熱気と舞台の泣き笑い喜劇の充実ぶりに、身も心も翻弄されました。
本来の「あ・うん」は、そんなお笑い話ではないと思うのですが、志らく座長の手に
掛かっては、第一級の喜劇に様変わりしてしまうのでしょう。役者の皆様の役柄に
留まらず、持ち前の個性が生かされていて、役と個の二重の味わいが、より一層
可笑しみを増して感涙の雨霰ものでした。私が40年前、つまり中学生の頃、
白黒テレビで見た喜劇の舞台を彷彿する底抜けの面白さがあり懐かしく思えました。
また折々斬新でテンポも軽快で、喜劇の新しい底力を痛感しました。
水田仙吉(柳家一琴)と門倉修造(立川志らく)の葛藤する友情、その娘や妻たちと
お妾ら女性陣の混在錯綜する人情物語の妙技妙演の数々。良い思い出となりました。

余談ですが、私は永遠の脇役爺さんだった左卜全が大好きです。
卜全のすっとぼけた一拍二拍三拍遅れのマヌケな間の面白さは何とも言えません。
その立ち姿の蟹股と、へったれ眉毛に、どんぐり眼と落花生形に開いた口などの
おどけ面など、単純な台詞も含めて総合的に、なんて面白いキャラクターなんだろう
と思いました。黒沢明監督の映画「生きる」でのお通夜のシーンの、沈黙から突然の
怒り発言と、ラストの役所の日常シーンでの横でただ口をあんぐり開けている姿が
卜全らしくて忘れられません。あの方は立派な演技というよりか、地でダサい芝居
やって、喜劇役者として以上にさまになっているから魅力的なのだと思います。
それに通定するものが今回の「あ・うん」の役者の方々に見て取れました。

冗談(笑い)が取り持つ和の精神を、日中戦争勃発という深刻な時代背景を逆手に取り、
まんまと順風として浮かび上がらせていたと思います。
噺家さんならではの芝居だからこそ「あ・うん」という向田邦子の小説を好素材と
して奇想天外な喜劇に仕上げられたのでしょう。
清純な娘のさと子(適役の酒井莉加)の視点で、物語が語られて進行していくドラマ
仕立てが功を奏していました。無垢な視点から、大人たちやその社会を見つめている
からこそ、深刻で滑稽な泣き笑いの渦が深く感動的なのだとつくづく思いました。
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11-825
posted by 二健 at 21:16| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

「銀幕ノ幻想」庚申講説

TLCW-Ginmakuno.jpg

カチンコ東京幻想倶楽部 第10回映像作品
【銀幕ノ幻想〜Chimere du rideau d'argent〜】
 平成17年7月8日・9日・10日18:50〜/下北沢・短編映画館「トリウッド」
 出演:谷畑聡、ギネマ、南原健朗、齋木亨子(朗読)
 撮影監督:荒木憲司/技術:村岡勇治
 美術:カイエ綺花、麿/音楽:竹夏、麿
 協力:木村哲也、宮崎二健、JazzBarサムライ、(株)ODIN
 脚本・監督:麿/制作:東京幻想倶楽部/上映時間:12分
            http://tokyo-lunatix.com/menu.html
※この上映は、
えむぱい屋「モーレツチャンピオンまつり〜怪獣+幻想〜」に於いて
荒木憲司監督のSF最新作「モーレツ怪獣大決戦」(出演:唐沢なをき、
久保亜沙香他)と二本立てで上映された。始めが短編の「銀幕ノ幻想」。
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麿監督の最新短編映画「銀幕ノ幻想」を観た。
たった12分間なのだが、かなり長く感じた。
目先を喜ばせるばかりではなく、掘り下げて来るものに心を奪われた。
それぞれの場面が耽美的で変化に富んでいた。
非叙述的な構造なので想像力をかき立てられた。
折り重なる余韻の連鎖を打ち消したり圧迫しない展開は、
ストレスなく幻の闇に惹き込まれる。
風波、色香、風俗、伝承、風刺、夢現(ゆめうつつ)など、
全て拮抗していて緩急に緊迫感があった。
男の切腹前の静寂さは、平面的な画面構成だけを取っても、
虚無と混沌に塗れた覚悟の魂が漲り、
観る者をカタルシスの坩堝に立ち込める芳香に導く。
三人の演者も、前半の男と後半の女の詩の朗読も雰囲気があり、功を奏している。
「まったくおまえはうすのろだ」と低く繰り返される罵声は、
フィードバックされ木霊する。
砂浜に外し置かれた二個の眼球、大映しの女の寄り目、
切腹部屋の背後の障子に描かれた痛恨の眼、
始めと終わりに現れる盲目の単独遍路。
カイゼル髭の男の鼻をかむ時の見開いた眼と切腹前の座った眼。
それらの眼光に挑発されつつ、我が眼は気張り続けた。

終幕の素朴なギターのアルペジオと波の音の哀感が、
未だに寄せては返し、返しては寄せてくる。

  幻想が幻想を呼ぶ波の音血汐漂う床に君在れ  二健

…そう感慨深く観終わって、一首で結んだ。
しかし、翌日の東京幻想倶楽部の掲示板で展開されていた真摯な書き込みに接して、
更に新たな感想が湧いてきた。
体の不自由な遍路のラストシーンで、例えば幻想の森の迷宮の扉を開く鍵を探して
いるかのような仕草で、和服の女ににじり寄り、胸元をまさぐっていた。
口を開けて首筋の臭いを嗅いでいた。
男に自刃で先立たれて自縛し損なった女の懐などには隠されているはずもなかった。
遍路は太鼓を叩いたら天井がびりついて鍵が落ちてくるとでも思ったのであろうか。

           *

そんな訳で、一つの仮説だが、「銀幕ノ幻想」は、
庚申講の突拍子もない映画表現だったのではないかと妄想し、
その脈絡に身を委ね、気侭な読みの旅をした。
「虫を出しまたか」という女の開口一番の科白は、
何よりもそれを象徴し、物語っている。
虫とは道教で言うところの三尸(さんし)の虫に違いない。
体内に潜伏し、その人の悪業を監視していて、謂れのある60日目に、
寝ている間に抜け出し、天帝に密告する。
天の神に悪のレッテルを貼られると、罪状に応じて寿命を縮められてしまう。
だから虫を出せと女は急かせたのだ。
三日後が予定日なのは、庚申信仰の使わしめが猿、
しかも見ざる言わざる聞かざるの三猿だ。
根拠はないが、今日は見ざるの日だから三日後なのだ。もうお分かりと思うが、
遍路は、あえて障害者の必然がある。よって独りで三猿を演じていたと解釈する。
庚申塔下部の三猿の上には、邪鬼を踏ん付けた青面金剛(しょうめんこんごう)が在す。
一面三眼六臂の神像だ。それを裏付けるかのように憤怒の眼や邪鬼が、
男の切腹部屋の障子に乗り移った如く描かれていた。
演者の腕の数を合わせれば六臂で勘定が合う。
三眼は、三尸とも通い、各虫の出入り口かも知れない。
そもそも青面金剛の手足には蛇が巻き付いている。
三白眼の女の自縛した縄が、蛇の隠喩だとすれば、
女は庚申講の本尊の青面金剛そのものだ。
威厳を形無しにして鼻をかむカイゼル髭の男は、三尸に巣食われた俗人だ。
三日後といわず、三匹といわず、ごっそりと虫を吐き出したのだが、
結局は天帝の命が下って、切腹を余儀なくされた。
生前の業は、障子絵と詩のナレーションと生き証人の女をもって描かれる。
不自由な遍路は下位の三猿として全ての辻褄が合う。
迷宮の扉の鍵探しは、太鼓の轟きを合図に遍路から観客に委ねられた。
女の二臂は合掌し青面金剛の後光を放ち続けている。

そんな迷宮に足掻いてみた庚申講幻想物語だった。

※初出=東京幻想倶楽部BBS「LUNATIK CAFE」、俳句天狗BBS「サムライブルース」
二稿の、ですます調をである調に改め、繋げて改稿した。 2005.7.12 Jiken
10-319
posted by 二健 at 15:33| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

ゆきゆきて、神軍 ―(1987)疾走プロダクション制作

yukiyukite-singun 0003.jpg

スタッフ〜監督:原一男/製作:小林佐智子/構成:鍋島惇/企画:今村昌平/
撮影:原一男/選曲:山川繁/編集:鍋島惇/録音:栗林豊彦/助監督:安岡卓治/
スクリプター:高村俊昭・平沢智・徳永靖子・三好雄之進・伊藤進一
製作協力:今村プロダクション/残像舎
                *
カチンコ原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」の主演者・奥崎謙三の逝去の段、
謹んでご冥福をお祈りします。
変電所員ということで徴兵を免れた我が親父と同齢でした。
親父は、群馬の田舎で平々凡々と、母親共々達者に暮らしております。

片や壮絶な生き方を貫いた奥崎謙三のことが、昔から気になっていました。とうとう
今更ながらも、まだ観ていなかったその作品を、ビデオで独りじっくり鑑賞しました。
噂通りの迫力でした。正に無骨なドキュメンタリー映画の傑作だと思いました。
カメラを前にして演技するなどという芸当は奥崎に出来たはずはなく、反体制の英雄
として美化した映画ではないと確信しました。奥崎は、只の凶暴な変人ではなく、
独り善がりながらも啓蒙の念に駆られた自我を全うする、一途な突出した人物でした。
老婆の手を取り墓に参り、哀れな死者に涙する奥崎の目に偽善の欠片も感じられません。
取り締まる警官に罵声を浴びせる言葉の端々にも、奥崎らしさが際立ちました。
正義感と人情の裏返しが過激な行動となって現れるも、自覚と責任感と自省の念を持ち、
わが身を律する人なのでした。既成のイデオロギーに拠らず、群れず、強きに立ち向かう
姿は天晴れでした。生き残った上官等を津々浦々訪ね歩き、戦争を体験した者として、
その醜さを開示せしめる言動の数々は、全て見所でリアリティーのある熱い場面でした。
高齢の上官達も、けっして裕福ではなくも、平穏な日常に突然降って湧いた戦争地獄の
忌まわしい記憶の彼方の再燃の強要にたじろぎ、反発し、その場を難なく収めようと
するのですが、結局は奥崎の入魂の押しに根負けして、真相が明らかになっていくので
した。その真相は人肉食いや部下射殺の史実解明、糾弾に留まらず、当事者は勿論の
こと、今現在の私達映画の観客も全て巻き込み、過去の戦争を通して人心の闇を暴いて
いくのでした。

スローガンの殴り書きで目一杯飾り立てた奥崎の軽のワゴン、または普通乗用車一匹の
戦闘物語でもありました。海辺の大きな景色に天道虫のような街宣車が、一台けなげに
走っているロングの画面には目頭が熱くなりました。
9-256
posted by 二健 at 18:37| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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